「マンガ」そして「ジャパニメーション」……

加倉井 仁

 

早稲田大学文学学術院のフランス語講師陣による「リレー・コラム」というコーナーの中で既に、中島万紀子先生が「フランス語マンガとわたし」というタイトルで、さらに、古永真一先生が「タンタンを聴く、着る、旅する」というタイトルで、フランス(語)の漫画というか、「バンド・デシネ(bande dessinée)」を題材にコラムを書かれています。
このコラムのタイトルを一目見てお気づきのように、僕も、「manga」と「japanimation」を叩き台に話をさせていただきます。「ワセダのフラ語の先生はどんだけぇマンガ好きなんだよ」とあきれないでください。
さて、最初に言っておきたいのですが「あえて言おう(元ネタが分かる人だけ笑ってください)、フランス(語)<の>漫画である『バンド・デシネbande dessinée』と『マンガ manga』はまったく別物である、と」。

こう言ってよければ、全ての面において<文法>が違うのです。物語の文法、コマ割りの文法、絵の描き方、「bandedessinée」と「manga」は別物なのです。そして今回このコラムで取り上げるのは後者の方です。
さて、「manga」という単語を聞いてすでにピンときた人もいると思うのですが、フランス語で「le manga / un manga」と言えば、日本語の「マンガ」と同じモノを指し示します。というか、そもそも日本語です。
僕は、2004年の9月から約二年間フランスに留学していたのですが、渡仏以前から、フランスでは日本の「マンガ」が流行っていると聞いていました。たとえば「Olive et Tom」というタイトルで『キャプテン翼』が翻訳され、アニメになっているとか(ちなみに、オリーヴが翼でトムが若林です。ネット上にはトムが岬くんという情報がありましたが、あれは誤りです)。とはいえ、フランスに行く前は話半分、日本のマンガやアニメなんてそれほど流行ってないんじゃないの、と思い込んでいたのです。

 

しかしパリに着いてビックリ。
ソルボンヌの近くにある「Gibertジベール」という本屋や、「Fnacフナック」という家電を中心にした量販店(僕のイメージではビックカメラやヨドバシカメラに近い……そのようなタイプのお店)には、日本のマンガのフランス語版が所狭しと置かれ、DVDのコーナーでは、ジブリ作品(その時は『魔女の宅急便』)が週間売り上げ第一位を占めていたような状況だったのです。

テレビでは、もちろんアメリカのアニメーションもやっていましたが、『ドラゴンボール』や『聖闘士星矢』といった日本のアニメ、いわゆる「ジャパニメーション」が多数放映されていました(ちなみに『頭文字D』をテレビで観た時には、こんな北関東の峠のカーバトルという題材をフランス人はどう受け取っているのか謎でした)。

テレフォン・アラブ

中野 茂

 

当時私は、パリで楽しい留学生活を送る目論見が見事にはずれ、執筆中の博士論文が遅々として進まず、研究対象としていた19世紀小説の情けない主人公よりもさらに冴えない日々を送っていた。そんなある日、寒く連日雨のパリの冬に耐えきれず、私はパリ―マラケシュ間の格安チケットをインターネットで購入し、小さなリュックサック一つを背にシャルル・ド・ゴール空港に向かっていた。実は昔見た映画で名前を知っていたカサブランカに行きたかったのだが、予算の都合でマラケシュ行きに変更を余儀なくされたのだった。

 

搭乗口前の待合室では、クラブメッドに行くのか、もうヴァカンス気分を楽しんでいる若いフランス人のグループが陽気に騒いでいた。そして夕刻、飛行機はモロッコに着く。機内のアナウンスとともに乗客から大歓声が起こる―「マラケシュの現在の気温26度」。

空港からのバスもホテルも、そしてもちろんレストランも予約していない私は、Le guide routard(ミシュランの旅行ガイドよりもお手ごろの宿やレストランのリストが掲載されている)をめくりながら安宿を探していた。すると程なく、子供たちが私の後をつけているのに気づいた。フランス語で陽気に話しかけてくるので、ホテルを探しながら散歩をしているとだけ答え、おかまいなしに気の向くままに歩いていた。あちこちの広場で、絨毯商や大道芸人の掛け声が陽気に響きわたり、香辛料と肉の焼けるこうばしい香りと広場の喧騒があいまって、北アフリカの不思議な夕刻の時間を作り出していた。

 

すると、40歳前後の年恰好の日に焼けた肌の男性が、「ボンソワール・ムッスィュー」と丁重に声をかけてきた。 ──ホテルを探しているなら、安いいいホテルがあるよ。── いつもならすぐ人を信用する私も、さすがにその時ばかりは警戒し、泊まりたいホテルはもう決まっていると答え、ガイドブックに載っているホテルの名前をいくつか告げる。すると男は、今晩そこはみな満室だというのであった。だまされるものかと心の中で思い、彼の助言を無視し迷路の街を歩きながら、お目当てのホテルに行ってみると、なんとすべて満室。途方にくれていた私に、どこからともなく、先ほどの男性が現れ、もっと安いホテルに案内しようという。少し躊躇ったが、私は何一つ盗られて困るものもなかったので、彼に案内されるままに、安ホテルにチェックインし、パスポートと空港で両替した現地通貨ディルハムを財布に詰め、世界遺産に登録されたばかりの旧市街をふらふら歩いていた。歩き疲れレストラン街の前にさしかかったとき、先ほどの男が再び登場し、私に何が食べたいかたずねるのであった。私がモロッコ名物のタジーンの名前をあげると、地元で評判のレストランを教えてくれるという。観光客とみなされるのを嫌いガイドブックをホテルに置いてきた私は、彼に導かれるまま、旧市街の奥まったところに位置し地元客で賑わっている店に入る。私が食事を始めると、彼は横のテーブルでテレビを見始めるのであった。ばつの悪い私は、彼を私のテーブルに誘い好きなものを頼むように言うと、彼は何もいらないと答え、私が当時吸っていたマールボロ・ライトを一本せがむのみであった。彼の目的は、最後までわからなかったが、私が別れ際にポケットにあった新しいマールボロ・ライトを一箱プレゼントすると、喜んでくれた。

あるフランス音楽(?)の話(1)

門間 広明

 

みなさんはフランスの音楽というと何が思い浮かぶでしょう? 歴史的に多くの才能を輩出してきたクラシック、あるいは日本では「シャンソン」「フレンチ・ポップス」と呼ばれることの多いヴェリエテでしょうか? 80年代の終わりからフランスが流行の発信地となったワールドミュージック、あるいは90年代以降活気づいているロックやラップ、それに最近はスラムなんかを聴いている人もいるかもしれません。仏文の先生にもこれらの音楽に詳しい方が何人もいらっしゃいます。しかし私は、恥ずかしながらこれらの音楽についてはあまりよく知りません。そんな私がここで、大胆にも(?)おすすめのCDをいくつか紹介してみたいと思います。以下で取り上げるのはメジャーなメディアではあまり話題になることのない音楽ですが、これらもまた「フランスの音楽」の隠れた水脈をなしているのです。……などと書いてみたものの、実はただの個人的な趣味話です。先生にコラムの執筆を頼まれたものの、私はつまらない人間なのでこれくらいしか書くことがないのです。(以下、興味を持ってくれた人が情報検索しやすいように、固有名にはアルファベット表記を付記しています。ただし日本でも有名なものについては省略します。)

 

最初は、コレット・マニーColette Magnyという歌手のVietnam 67- Mai 68(Scal’ Disc, CMPCD07)という作品です。

1963年のフランスで、それまでまったく音楽教育を受けたことのなかった36歳の女性が、17年も勤めたO.C.D.E.(経済協力開発機構)での秘書の職を辞し、歌手としてデビューしてしまいます。それがコレット・マニーです。彼女の魅力は、まずはその声にあるといえます。どっしりと安定感があり豊かな倍音を含むその声は、簡単にいえば黒人のブルースシンガーのそれに近いものです(まあこ の動画を見てください)。声そのものの魅力もさることながら、歌手としての実力も疑いようありません。しかし本当に驚くべきなのは、彼女がデビュー後数年にしてメジャーなシーンから完全に撤退し、音楽的かつ政治的にきわめてラディカルな試み乗り出すことです。60年代後半に発表されたVetmnam 67とMagny 68というアルバムは、アンガジェ(政治参加)した歌手としての、彼女の初期の傑作といえます。この2枚のカップリングとして再発されたのが、ここで紹介するVietnam 67- Mai 68です。ここではジャズや現代音楽畑のミュージシャンとともに先鋭な音楽的試みが行われ、そして歌詞はそのほとんどが政治的な内容になっています。遠くから響いてくるようなパーカッションの音に乗って、広島の被爆者について歌われる”Bura Bura”という曲がとりわけ印象的です。

同時期のジャズとヴァリエテのコラボレーションといえば、すぐ思い浮かぶのは1969年のブリジット・フォンテーヌとアート・アンサンブル・オブ・シカゴによる『ラジオのように』ですが、コレット・マニーの作品はそれと比べてもはるかに政治的な歌詞が特徴です(おそらくそれが原因で、知名度ではずっと劣っているわけですが)。ともあれどちらも傑作といえる作品なので、この二枚を聴き比べてみるのも一興でしょう。 コレット・マニーは以後も、歌詞においてさまざまな政治問題を取り上げ、またラルースのフランス語辞典の”marche”の項をそのまま歌ったり、アントナン・アルトー作品の朗読を収めたレコード発表したりと、ユニークな活動を続けてゆきます。しかし彼女はメジャーなメディアでは無視され、その曲がラジオでかかることはほとんどなくなります。64年にはオランピア劇場でクロード・フランソワとシルヴィ・ヴァルタンと共演した歌手がこのような経歴をたどったこと自体驚嘆すべきですが、その作品の圧倒的な力は、彼女の選択の正しさを余すところなく証明しています。

ベルギーでROAD MOVIE

北村 陽子

夏休みに10日ほどベルギーへ行った。去年もフランスから足をのばして5日ほど滞在したのだけれど、今年はあまり日数をとれなかったこともあり、フランスには寄らないでベルギーにだけ行ってしまった。という具合で、最近急にベルギー《デビュー》している私である。

19世紀には、政治的理由でフランスにいられなくなった人たちが、ベルギーへ亡命することが多かった。政治的理由でなくても、フランスが少々しんどくなってきた(というだけの理由ではないかもしれないが)作家や芸術家が、ベルギーへ行った例は多い。

ボードレールは講演&出版などを目論んでブリュッセルに行ったが、まったくうまくいかず、怒り狂い、ベルギーを罵倒する本を書き、ナミュールの教会を訪問中に脳溢血の発作でたおれた。写真家ナダールは、自分の写真の宣伝と、気球を上げるというイベントを携えて、友だちのボードレールに合流。画家クールベは、フランスでいろいろ悪口を言われると、ベルギーでビールを飲んで発散していたらしい。当時ベルギーではフランスの風刺画や挿絵本の海賊版が山ほど作られていて、フランスから逃げてきて怪しい本を企画する出版者もいた。時代をやや下り、ヴェルレーヌがランボーに発砲するという事件を起こしたのは、ブリュッセルのホテル。銃も近くで買ったらしい(ホテルの人は大迷惑ですね)。フェネオン(という人については、私の教員紹介ページ参照)の愛人は、ベルギー人の教師だった。

というようなことは、以前からある程度知ってはいたけれど、それはむしろ現地へ行くという体験をしてから、まじめに調べはじめたこと。ベルギーに注目するようになったのは、私の場合、一本の映画がきっかけだった。ダルデンヌ兄弟の『イゴールの約束』(フランス語の映画。ベルギーはフランス語圏とフラマン語圏にわかれる)。96年にパリで見て、「素晴らしい!」と思った。少年イゴールは、不法移民労働者を働かせてその上前をはねる父の仕事を手伝っている。撮影場所はリエージュの近郊、観光的に美しい街並みなどは、まったく出てこない。ドキュメンタリー調の厳しさを持っているけれど、あくまでフィクションの硬質な映画である。