テレフォン・アラブ
数日後、私はオアシスの街ティネリィールにたどり着く。予定では2日程度過ごすつもりだったが、結局ずるずると1週間も滞在する羽目になってしまった。というのも、私は、泊まっていた安ホテルのオーナーの息子と従兄弟に連日街を案内してもらっていたのだが、出発する前の晩になるときまって、その従兄弟がホテルにやってきて、今日隣町でバスの事故があって、明日の朝のバスは運行しないというのであった。私が不運を嘆いていると、彼はもし急いでいるならタクシーで次の目的地まで連れて行こうと提案してくれる。だがさすがに物価の安いモロッコでも300kmの道のりをタクシーで行くには、莫大な料金がかかってしまう。困った私に、彼は「友人料金」を適用し半額にしてくれるとまで言ってくれたが、それでも私には高すぎた。結局ずるずるとオアシスの街にとどまることになってしまった。しかし1週間たったある朝、無性に砂漠が見たくなった私は、事故のため運行していないはずのバスに乗り、オアシスの街からようやく脱出することができた。
数日後の週末、バスはとうとうアトラス山脈を超え、ある町にたどり着く。そこから今回の旅の目的地である砂漠までは数十キロであった。しかし、ガイドブックによれば、バスはそこで終わっており、砂漠に向かうには、買出しに来ている砂漠の集落の人の車に(昔だったら駱駝であっただろうに!)乗せてもらうしか手段がないとのことだった。幸いにして、数日前まで宿泊していたホテルのオーナーの従兄弟(モロッコ人はとにかく従兄弟が多い!)アブドゥールから、砂漠近くの集落でHôtel Oasis(ガイドブックお勧めで私が泊まろうとしていた)を経営している彼の弟アリが週末の午前中Café Panoramaにいるはずだから、彼を探してホテルまで連れて行ってもらえばいいと言われ、彼は私をアリに紹介する手紙まで書いてくれた。私は、バスを降りながら、いつものように集まってくる子供たちに、Café Panoramaの場所を聞き、そこの常連客アリを探していると告げ、カフェへと向かった。だが、私は入り組んだ旧市街でいつものように道に迷い、困り果てていた。ふとその時、黒いスカーフを首に巻いた、猛獣使いの凛々しさを備えた背の高い30歳くらいの男が寄ってきて、自分がアリだと名乗るのであった。カフェを探す手間が省け喜んだ私は、アリの兄から預かった手紙を渡すと、彼はそれを一読し、「分かった、これからお前を俺のホテルに案内する。ただその前に、ベルベル人である私は、日本からやってきたお前を家に招待する義務がある」という。「義務」ならしょうがない、ということで、私は彼についていった。私が案内された部屋には絨毯が一面に敷き詰められていて、灼熱の太陽を浴び疲弊していた私の体を癒してくれる砂糖たっぷりのミントティーを飲みながら、日本やパリについての話が弾む。話はいつの間にか絨毯に移り、彼はモロッコの先住民族ベルベル人における絨毯の重要性を語ってくれた。 ──ベルベル民族は地域ごとに方言が強く、近くの村でも、時には言葉が通じないこともある。だから、隣村に嫁いでいく娘は、一生の運命を託す結婚相手への想いを、言葉ではなく、織り上げる絨毯によって表現する……絨毯とは恋愛と同じで、最初の瞬間にすべてが決まる。そう一目惚れだ……── お茶を飲んでいる私たちの目の前で、いつの間にか7歳くらいのかわいらしい子供が次から次へと丸まった絨毯を広げていく。まるで映画のワンシーンのように。その絨毯の美しさに見とれていた私は、魔法にかけられたかのように、「一目惚れ」した絨毯を1つ予約してしまう。その後、またミントティーを飲んでいたが、彼の車が出る午後1時まではまだ時間があったので、アリに荷物を預け私は少しカスバの散策に出かけることにした。しばらくアリの巣のような旧市街を行くと、少しずつ魔法は解け、私は先ほど予約した絨毯より見事な、薄いブルーとオレンジ色の絨毯に「一目惚れ」し、30分かけて3分の1の値段に値切り購入する。旅の途中出会ったフランス人によると、絨毯は通常10分の1まで値切れるそうだが、私は「一目惚れ」した絨毯をそこまで値切ることに違和感を覚えざるを得なかった。小さく包んでもらった絨毯を小脇に抱え、乾いた土でできた迷路状の旧市街を歩き続けていると、どこからともなくまた子供たちがやってきて言う。「ムッスィュー、ムッスィュー、イル・ネ・パ・アリ(彼はアリではありません)」。それまで、幾度となくモロッコ人にかもにされてきた私も、今度ばかりはアリを信用していたので、「ふざけるな、いい加減なことを言うんじゃない」と声を荒げてしまった。おそらく私の苛立ちは、この迷路で誰を信じていいのか分からなくなった私の焦りからきていたのだろう。すると、すぐさま、彼らはHôtel Oasisの写真を見せてくれた。そこには、オーナーとおぼしき人物とアブドゥーが並んで写っていた。確かに二人は良く似ていた。それに比べ、ベルベル絨毯の秘話を語ってくれたアリは……。とすると、この写真のアブドゥー似の男がアリか。では、一体さっきのアリは……?