テレフォン・アラブ
中野 茂
当時私は、パリで楽しい留学生活を送る目論見が見事にはずれ、執筆中の博士論文が遅々として進まず、研究対象としていた19世紀小説の情けない主人公よりもさらに冴えない日々を送っていた。そんなある日、寒く連日雨のパリの冬に耐えきれず、私はパリ―マラケシュ間の格安チケットをインターネットで購入し、小さなリュックサック一つを背にシャルル・ド・ゴール空港に向かっていた。実は昔見た映画で名前を知っていたカサブランカに行きたかったのだが、予算の都合でマラケシュ行きに変更を余儀なくされたのだった。
搭乗口前の待合室では、クラブメッドに行くのか、もうヴァカンス気分を楽しんでいる若いフランス人のグループが陽気に騒いでいた。そして夕刻、飛行機はモロッコに着く。機内のアナウンスとともに乗客から大歓声が起こる―「マラケシュの現在の気温26度」。
空港からのバスもホテルも、そしてもちろんレストランも予約していない私は、Le guide routard(ミシュランの旅行ガイドよりもお手ごろの宿やレストランのリストが掲載されている)をめくりながら安宿を探していた。すると程なく、子供たちが私の後をつけているのに気づいた。フランス語で陽気に話しかけてくるので、ホテルを探しながら散歩をしているとだけ答え、おかまいなしに気の向くままに歩いていた。あちこちの広場で、絨毯商や大道芸人の掛け声が陽気に響きわたり、香辛料と肉の焼けるこうばしい香りと広場の喧騒があいまって、北アフリカの不思議な夕刻の時間を作り出していた。
すると、40歳前後の年恰好の日に焼けた肌の男性が、「ボンソワール・ムッスィュー」と丁重に声をかけてきた。 ──ホテルを探しているなら、安いいいホテルがあるよ。── いつもならすぐ人を信用する私も、さすがにその時ばかりは警戒し、泊まりたいホテルはもう決まっていると答え、ガイドブックに載っているホテルの名前をいくつか告げる。すると男は、今晩そこはみな満室だというのであった。だまされるものかと心の中で思い、彼の助言を無視し迷路の街を歩きながら、お目当てのホテルに行ってみると、なんとすべて満室。途方にくれていた私に、どこからともなく、先ほどの男性が現れ、もっと安いホテルに案内しようという。少し躊躇ったが、私は何一つ盗られて困るものもなかったので、彼に案内されるままに、安ホテルにチェックインし、パスポートと空港で両替した現地通貨ディルハムを財布に詰め、世界遺産に登録されたばかりの旧市街をふらふら歩いていた。歩き疲れレストラン街の前にさしかかったとき、先ほどの男が再び登場し、私に何が食べたいかたずねるのであった。私がモロッコ名物のタジーンの名前をあげると、地元で評判のレストランを教えてくれるという。観光客とみなされるのを嫌いガイドブックをホテルに置いてきた私は、彼に導かれるまま、旧市街の奥まったところに位置し地元客で賑わっている店に入る。私が食事を始めると、彼は横のテーブルでテレビを見始めるのであった。ばつの悪い私は、彼を私のテーブルに誘い好きなものを頼むように言うと、彼は何もいらないと答え、私が当時吸っていたマールボロ・ライトを一本せがむのみであった。彼の目的は、最後までわからなかったが、私が別れ際にポケットにあった新しいマールボロ・ライトを一箱プレゼントすると、喜んでくれた。