エドゥアール・ブーバの写真について

瀬戸 直彦

 

フランスの写真家のなかで私のもっとも愛する人といえば,この人である。1999年にEdouard Boubatが76歳で亡くなったとき,日本ではほとんど報道されず,『アサヒカメラ』誌がわずかに追悼の作品を4ページほど載せただけだったと記憶している。ブーバを知る人はその写真を甘いというかもしれない。しかし,フランスの,パリの,そして世界のあちこちの市井の人を撮りながら,これほど力強い,それでいてしっとりとした印象をあたえるのは,私にとっては,かれの作品をおいて他にはない。女性のポートレート,公園で遊ぶ子供,何気ないパリの,そしてフランスの田舎の風景,ポルトガルの海岸の抒情性,どれをとっても美しい。ただ美しいというのではない。しっとりとした,とでもいうしかない,何とも形容しがたい魅力にあふれている。同時代の有名な写真家,アンリ・カルティエ=ブレッソンのように決定的瞬間をねらうわけではない。ウイリー・ロニスのようなユーモアのあるパリ風景というのでもない。イジスの撮るノスタルジックなパリの記憶でもない。あらゆるメッセージを排していながら,なんともいえない芸術性のオーラ,抒情性のもつ力強さを発散しているのうに感じるのである。

 

リュクサンブール公園での「初雪」(1955年)。かたづけられ重ねられた公園の鉄の椅子を前景にして,男の子たちが真っ白の雪の上で遊んでおり,背景に東屋と垂直の木々のある写真はどうだろう。モンマルトルの街路の崩れた壁の前にたたずむ少女(1964年)。大きな靴を履き,薄汚れたコートを着た女の子の顔は,この子の先の人生をすでに語っているかのようだ。ニューヨークの「ブルックリン橋」(1982年)。林立した高層ビルを背景に,左上から斜め右下に幾本もの綱が支えている橋の上のすばらしい構図。綱に手を支えて遠くを眺める女性の倦怠感をたたえた後ろ姿。また,日本の幼稚園のなかで,帽子をかぶり制服をきた女の子たちの一団を撮った作品(1987年)。中央の女の子のりりしさはどうだ。あるいは地方都市「バルブジユー」Barbezieuxの一光景(1956年)。お偉方だか選挙に出る候補者だかが,芝生にしつらえたフランス国旗のはためく演壇の上で,真昼間に大真面目に演説している。大人たちはそれを傾聴しているのに,演壇のすぐ横では子供たちが遊び,右前では女の子2人がお喋りに夢中である。モノクロでとらえた永遠の瞬間ではないだろうか。

 

ブルターニュの海岸で撮った「レッリャ」Lellaという作品は,2年間一緒に暮らしたイタリア系女性の一種のポートレートで,ブーバの写真でもっとも知られた作品のひとつであろう(1947年)。海辺の風に髪をなびかせ黒い下着に薄物をまとった若い女性が右の方向をきっとした様子で眺めている。このばあい,きりっとしているのでもなく,凛としているのでもない。きっとしているのである。モノクロ写真のしまった黒とよく抜けた白が強調され,女性の真の強さと美しさがこれほど力強く表現されている写真を私は見たことがない。ところで,この人の作品集が始めて単行本として出版されたのが日本であったということも,記憶しておくべきことであろう。ポルトガルはナザレの海岸のカラーによるルポルタージュ『海の抒情 Ode maritime』(平凡社,世界写真作家シリーズ,1957年)である。ブーバのカラー写真はめずらしい。しゃれた装丁は原弘で,序文が伊奈信男,フランス語によるBernard Georgeの解説には林達夫の翻訳が付されている。

 

ここに転載できないのが残念だが,このLellaは,新潮社の「とんぼの本」シリーズの『写真の見方』(細江英公・澤本徳美著, 1986年)の55ページに見ることができる。ブーバの仕事の全体像をかんたんに知るには,フランスのポケット版写真家シリーズ,photo pocheの第32巻,Edouart Boubat(1982年)をお勧めしたい。Lellaをとった一連の写真は,その50年後に彼女の回想を付した小冊子が出ている(Edouard Boubat, Lella, Paris Audiovisuel / Maison Européenne de la Photographie, 1998.)。ほかにMichel Tournierとの共著:Vues de dos, nrf, Gallimard, 1981.も入手しやすい。写真術についてブーバの語ったLa photographie, l’art et la technique du noir et de la couleur, Livre de poche, 1985.もたいへんに面白い。じぶんの作例の解説と使用機材についても書いてある。たとえば「ブルックリン橋」はLeicaのM3, Summicronの50ミリを使ったことがわかる。この本を読むと,この写真家が文章のうえでも詩人であることがわかるであろう。

 

トピックというコラムは,現在みられる展覧会などの紹介が主眼らしい。ブーバの作品は,残念ながら日本ではげんざい,ほとんど公開されることがない。そのときどきの話題性とは無縁である。2004年に亡くなったアンリ・カルティエ=ブレッソンはそうではない。ブーバとおなじく主として1950年台にフォト・ジャーナリストとして世界各地を回り,またパリを写真に収めてきたブレッソンは,つねに巨匠の名をほしいままにしてきた。めずらしくも本人がプリントしたものも含めて,本年(2007年)8月12日まで,東京国立近代美術館で展覧会が開催されている(「アンリ・カルティエーブレッソン-知られざる全貌」)。ブーバについても,いつかは日本で本格的な写真展の開催される希望をこめて,この稿をしたためました。

「目白バ・ロック音楽祭」礼讃

川瀬 武夫

 

毎年6月になると、早稲田からほど近い目白の地でバロックを中心とした、いかにも手作り感のある音楽祭が4週間にわたって開かれる。主催者側の説明によれば、目白という「場」に「ロック」な人々が集い交流するのが開催理念ということだが、ヨーロッパの17世紀から18世紀にかけての古い音楽を好んで聴きに来るのがどうして「ロック」な連中なのかてんで意味不明なまま、一方でたんに学習院や日本女子大があるなとしか意識してこなかったこの街の「山の手」的な奥行きを再発見するのに、なるほどうってつけの機会となる。具体的には、ふだんあまり訪れるチャンスのない、東京カテドラル聖マリア大聖堂、目白聖公会、聖母病院チャペル、日本女子大学成瀬記念講堂、自由学園明日館等々の、この地区に点在する由緒ある歴史的建造物が会場となっているのがこの音楽祭の売りのひとつなのである。

 

3年目にあたる今年は前半が「モンテヴェルディ・フェスティバル2007」と特集されて、本場イタリアからバロック・ヴァイオリンの名手エンリコ・ガッティと超絶技巧の声楽団体ラ・ヴェネシアーナが初来日を果たすというので、早くからチケットを予約して公演の日が来るのを楽しみにしていた。

 

最初に行ったのはガッティがイタリア・バロック期のソナタを弾くリサイタルで、会場は目白の隣の池袋にある立教大学第一食堂。これは1918年に建てられたという重厚なイギリス様式の煉瓦造りの学生食堂で、入り口に掲げられたラテン語は「欲望は理性に従うべし」という哲学者キケロの言葉とのことである。リサイタルはその入り口を開け放しにして、初夏の爽やかな微風が満員の客席(250席)のあいだを涼やかに吹き抜ける環境で行われた。

 

イタリア系のバロック・ヴァイオリニストといえば、ビオンディ、オノフリ、カルミニョーラといった「鬼才」たちの、いずれも鋭くエッジの立ったケレン味たっぷりの「過激な」古楽演奏に久しく熱狂してきたものだが、ガッティの奏でる最初の楽音が聞こえたときから、この温厚な顔立ちの演奏家のめざしているのがまったく別のものであることがただちに直観された。それは一体どういったらよいのか、刺激臭の一切ない、芳醇でまろやかな、まるで蜜の味のような音色だった。モダン、ピリオドを問わず、これほど気品に満ちた甘美なヴァイオリンの音を聴いたことがないと思った。その分(というべきか)、運弓のミスや音程の乱れなどテクニック上の意外な脆弱さも露呈しながら、チーマ、フォンターナ、ウッチェリーニ、スピッサティ、ヴェラチーニら、CDですらめったに聴くことのできない作曲家たちのヴァイオリン・ソナタ群があくまでも繊細に淡々と演奏された。はじめての奏者とはじめての楽曲との幸福な出会いがあり、会場の独特な雰囲気ともあいまって、音楽の理想郷が一瞬そこに現出したような感覚にとらわれた日曜日の午後だった。

ガッティはもう一日、同じくイタリアのバロック・コンチェルトのコンサートを聴きに行った。会場が江戸川橋そばのトッパンホール(400席規模の小さいけれど最新のコンサートホール)だったこともあって、これはもっと「普通の」演奏会で、彼のパーフォーマンスもよりくつろいではるかに安定感を増していた。お約束のヴィヴァルディは優美で聴きやすくべつに悪い出来ではなかったものの(この過剰な作曲家については、やはりビオンディを実演ではじめて聴いたときの衝撃が忘れられない)、この日もむしろガルッピ、ボンポルティ、タルティーニといった「マイナーな」作曲家の珍しいコンチェルトに心がときめいた。イタリア・バロック期のヴァイオリン音楽という無尽蔵の宝庫から手品のように次々と繰り出されてくる隠れた逸品に耳を傾けながら、地中海のどこまでも晴れわたった青空にいざなわれる思いがしたものだった。

『澁澤龍彦──幻想美術館』から

鈴木 雅雄

 

とにかく驚くべき一貫性だ。しかもそれが企画者の演出ではなく、澁澤龍彦自身の内的必然性に基づくものと納得させられてしまうような迫力がある。彼が偏愛した画家たちの300点以上の作品は、時間的にも空間的にもかけ離れた場所から取り集められているにもかかわらず、澁澤ファンの期待を裏切るようなものをほとんど含んでいないだろう。だがそのことを保証したうえで、ここではむしろ非常に偏った視点から、会場で考えたことを記してみたい。この文章の書き手のようにシュルレアリスムを研究する人間にとっても、多くの大切な作品に出会える(あるいは再会できる)だけでなく、日本におけるシュルレアリスム美術の受容がどのようなバイアスのかかったものだったかを考えるための貴重な機会を提供してくれる展覧会であるからだ。

 

マニエリスム絵画や江戸時代の美術にまで及ぶ澁澤の関心のなかから、シュルレアリスムと直接間接に関係する部分だけに絞って会場を見渡してみよう。グループの中心にいた画家ではまずエルンストとダリ、そしてタンギー(ブリュッセル・グループまで含めれば、これに加えてマグリット)が目立つ。もう少し遠巻きな関係にあった画家では、ベルメールを別格としてモリニエとデルヴォー、それにスワーンベリが重要な位置を占めている。澁澤がそれぞれの画家に費やした文章の量からして、まったく妥当な選択だろう。とりわけスワーンベリの作品などは、日本で数点をまとめて目にすることの非常に難しいものであり、写真で見るよりむしろ押さえた色彩や、比較的自由に水彩を滲ませた筆致を確認するだけでも、訪れる価値があるだろう。

 

しかし澁澤は、決してシュルレアリスム絵画の全体を愛したわけではない。巌谷國士氏が解説で指摘している通り、ここにはミロやアルプは現れないし、マッソンやマッタといったオートマティスムの系譜も存在しない。澁澤自身「形のはっきりしない」絵画に興味を抱けないと明言していて、なるほどそれはよくわかる。ただもう少し考えると彼の好みは、色彩より形態、あるいはマチエールよりフォルムという選択にも還元できないような気がしてくる。なぜだろうか。

 

曖昧な表現になるが、会場に並べられたタブローを見渡すと、「絵らしい絵」だなという印象がある。一点一点が自立していて、なぜそれが描かれねばならなかったかをタブロー自身が語っている、そんな印象だ。そこにはたしかに描かれる価値のあるもの(たとえば夜の街を放心して歩く裸体の女性たち)が描かれている。文学的な絵画といってしまえばそれだけのことかもしれない。だが問題はおそらく、形のはっきりした絵画がすべて文学的なわけではなく、「絵らしい絵」でもないということだ。

 

何が描かれているかはっきりしていても絵らしくないもの、それをたとえば「図」と呼んでみよう。地図や設計図、あるいは図案化された意匠のようなもの。それらは誰でも簡単に反復できる。しかし「絵らしい絵」はその画家によって、しかも一点しか作り出せない。そしてシュルレアリスムが評価した、しかも「形のはっきりした」造形芸術のなかで澁澤の執着度が相対的に低い部分があるとすれば、それはまさに「図」としての性格を色濃く持った、いわゆるアール・ブリュットや、北アメリカあるいはオセアニアの部族芸術ではないだろうか。

 

もちろんこれは性急な一般化ではある。郵便配達夫シュヴァルの理想宮を澁澤は訪れたし、ヴェルフリやクレパンについても語っている。それでもここに展示された作品を目で追っていくと、それらの多くが誰でも描くことのできる「図」ではなく、メチエを持った画家の仕事であり、しかも澁澤の趣味はそこにあったと思えてくる。シュルレアリスム絵画が日本で認知される過程で、あるいは瀧口修造以上の影響力を持ったかもしれない澁澤の視線が、シュルレアリスムから「図」を捨象するものであったとするなら、逆にそれを再構成することが新しい展望を開くのかもしれない。その意味で、出品作のうちいささか異質なのはスワーンベリとフリードリヒ・ゾンネンシュターンであると思われる。一人は水彩、もう一人は色鉛筆という、さほどのメチエを要求しない手段で描くこの二人は、おそらく誰にでもそれを反復することの可能なパターンを持った「図」の絵画を生産し続けた。もちろん澁澤自身はスワーンベリこそ現存する最愛の画家だと語ったのだから、これらを彼の趣味のなかでマージナルな画家だということはできないが、その絵画論は模倣できない画家の個性に向かおうとするものであった。彼は「図」のなかに、常に「絵」を見ていたのではなかろうか(そして私たちもまた、いまだにそれを見続けている)。

 

澁澤のおかげでシュルレアリスム絵画を見る一つのやり方を私たちは学んだが、そこでえた視線は、シュルレアリスムを現代美術史から切り離し、文学的絵画の位置に押しこめるものであったことも否定はできない(おそらくフランスですら似たような事情はあるのだが)。たとえばマグリットを、あるセンスと才能を持った画家だけが作り出せるオブジェどうしの意外な出会いではなく、図鑑の挿絵を自由に移動させる、いわば他愛もない遊戯として再発見することのうちに、シュルレアリスムの造形芸術を語る新しいディスクールを見出すためのヒントは隠されているかもしれない。澁澤の感性の人間離れした一貫性は、受け入れるにしろ拒絶するにせよ、それに対して一定の態度を取ることでどこかへ赴くことのできる、そんな力を秘めているのだと思う。

(埼玉県立近代美術館、2007年4月7日~5月20日)

 

※会場へのアクセスについては埼玉県立近代美術館のホームページをご覧ください。ディスク・ユニオン北浦和店(ヒップホップ系の中古CDが充実)に行く用事のある人もついでにぜひどうぞ。

ベルギーでROAD MOVIE

北村 陽子

夏休みに10日ほどベルギーへ行った。去年もフランスから足をのばして5日ほど滞在したのだけれど、今年はあまり日数をとれなかったこともあり、フランスには寄らないでベルギーにだけ行ってしまった。という具合で、最近急にベルギー《デビュー》している私である。

19世紀には、政治的理由でフランスにいられなくなった人たちが、ベルギーへ亡命することが多かった。政治的理由でなくても、フランスが少々しんどくなってきた(というだけの理由ではないかもしれないが)作家や芸術家が、ベルギーへ行った例は多い。

ボードレールは講演&出版などを目論んでブリュッセルに行ったが、まったくうまくいかず、怒り狂い、ベルギーを罵倒する本を書き、ナミュールの教会を訪問中に脳溢血の発作でたおれた。写真家ナダールは、自分の写真の宣伝と、気球を上げるというイベントを携えて、友だちのボードレールに合流。画家クールベは、フランスでいろいろ悪口を言われると、ベルギーでビールを飲んで発散していたらしい。当時ベルギーではフランスの風刺画や挿絵本の海賊版が山ほど作られていて、フランスから逃げてきて怪しい本を企画する出版者もいた。時代をやや下り、ヴェルレーヌがランボーに発砲するという事件を起こしたのは、ブリュッセルのホテル。銃も近くで買ったらしい(ホテルの人は大迷惑ですね)。フェネオン(という人については、私の教員紹介ページ参照)の愛人は、ベルギー人の教師だった。

というようなことは、以前からある程度知ってはいたけれど、それはむしろ現地へ行くという体験をしてから、まじめに調べはじめたこと。ベルギーに注目するようになったのは、私の場合、一本の映画がきっかけだった。ダルデンヌ兄弟の『イゴールの約束』(フランス語の映画。ベルギーはフランス語圏とフラマン語圏にわかれる)。96年にパリで見て、「素晴らしい!」と思った。少年イゴールは、不法移民労働者を働かせてその上前をはねる父の仕事を手伝っている。撮影場所はリエージュの近郊、観光的に美しい街並みなどは、まったく出てこない。ドキュメンタリー調の厳しさを持っているけれど、あくまでフィクションの硬質な映画である。