Que reste-t-il de nos amours ?

昼間 賢

 

表題は、往年のシャンソン歌手シャルル・トレネの名曲で、その意味をまずは直訳で捉えていただきたい。「ク~レ~スト~ティル、ドゥノザムール、ク~レ~スト~ティル、ドゥノザムール」と繰り返すトレネの歌い方は、懐古的な歌詞に合わせて寂しそうではあるが、その声色は、むしろ明るい。この歌が生まれたのは1942年、つまりパリは占領下で、だからこの明るさのわけが気になるのだけど、シャンソンに詳しい方にとっては、トレネは何を歌っても明るい、それだけのことかもしれない。「よろこびのうた」だって暗い時代の歌だよ、こっちのほうがずっと輝いてるじゃないか。にもかかわらず、その明るさはどこか装った感じがする。実際には「よろこびのうた」は戦争前の歌で、次第に暗くなってゆく時代を明るく乗り切ろう、という調子の、無頓着というか、強がりというか。かえって虚しくなるような白々しさでさえある。「残されし恋には」の明るさは、それとは違う。いわば、残余の光。たゆたえども沈まなかったものの煌めきだ。

 

僕がフランスのポピュラー音楽に目覚めたきっかけは、1993年、当時早稲田で教えていたパトリック・ルボラール氏の授業中に聞かされたMCソラールのデビュー作だった。曖昧模糊と聞こえていたフランス語の中を、軽快な嵐がさっと吹き抜けるようだった。その衝撃で、そのころ流行っていたネグレス・ヴェルトのカッコよさ(特にセカンドの)がわかるようになった。前者はラップ・フランセの先駆け、後者はミクスチャー・ロックの金字塔である。実は、同じ時期にトレネも聞いているのに、どんな感想を持ったかは全然覚えていない。それから五年後、到着したばかりのパリで、留学中の指導をお願いしていたアントワーヌ・コンパニョン氏の新刊書『理論の悪魔』の序論にこのタイトルが使われていて驚いたことはよく覚えている。授業では「プルースト研究なんてもうやめましょう」などと言い放つ先生で、一時期はずいぶん悩んだ。その言葉を相対化できるようになったのは最近のことだ。

 

とにかく、フランスのポピュラー音楽は僕にとって、最初から混ざりものとしてあった。僕より年上の人たちには思いも寄らない聞き方かもしれない。甘くささやくフレンチ・ポップスは、ほとんど知らない。当時亡くなったばかりで人気絶大だったゲンズブールも、後追いで聞いて感銘は受けたもののリアルな聴取体験にはなっていない。僕にとってのヴァリエテ・フランセーズとは、ネグレスやテット・レッドなどあのころは多かったバンド系と、実はMCソラールもその文脈で聞かれていたアシッド・ジャズ系のグループが中心で、少し後でゼブダが登場したころには、エールやフレデリック・ガリアーノなどエレクトロ系のサウンドも聞くようになった。僕自身が音楽活動に熱中していた(サックス吹いてました)ことも無関係ではなかった。音楽とは第一に鋭利なサウンドであり、歌詞やメッセージなんてほとんど関心がなかった。渡仏後も、伝統的なフランスらしさとは異質な音楽ばかり探し求めた。世紀の境目にあったフランスは、90年代前半に花開いた様々な音楽がそれぞれの最盛期を迎えていて、何を聞いてもおもしろかった。拙著『ローカル・ミュージック 音楽の現地へ』は、個人的にはその集大成のつもりだった。この本は、実は本文を書き終えてから案出したローカル・ミュージックというコンセプトが比較的目新しかったのと、予定より大幅に遅れた刊行が偶然にも2005年秋の郊外暴動と重なったため、好意的な読者には、新しい時代の、それも不穏な新しさを先取りしたものとして受け取られた。それはそれで嬉しかったが、僕自身は、騒動が鎮まるのを見届けた上で、ひとつの時代の終わりが刻まれた本ということになるだろうと感じていた。

タンタンを聴く、着る、旅する

古永 真一

 

中島先生のエッセイでも触れられていましたが、フランス語のマンガについて語る際に『タンタンの冒険旅行』ははずせないでしょう。フランス語のマンガは読んだことはないという人でもタンタンのキャラクターは何処かで目にしているでしょうし、それぐらい世界的に人気のあるマンガだと言えます。最近でもパリのポンピドゥセンターで大規模な回顧展が催されましたし、スピルバーグが映画化するなんて噂もあります。

 

マンガは一度読んでおもしろかったらもうそれでいいのかもしれませんが、その一方でいろいろ調べてみる楽しみというのもあると思います。例えばタンタンはベルギーのマンガですから、ベルギーの文化や歴史を知るきっかけにもなります。タンタンや作者エルジェについて調べてみれば、ベルギーによるアフリカの植民地支配や、第二次大戦のドイツ軍占領下でのベルギーの人々の生活がわかるはずです。

 

日本でもマンガ学が盛んになってきましたが、欧米でもタンタンに関してはすでに多くの研究書が書かれていて、「タンタン学」や「タンタン学者」なんて言葉もあります。例えば、サブキャラにこだわって調べてみると意外なことが見えてきます。タンタンにはビアンカ・カスタフィオーレというオペラ歌手が登場しますが、マンガのなかで彼女がいつも歌っているのは、グノーのオペラ「ファウスト」の宝石の歌。「ファウスト」は日本語字幕つきのDVDも出ていますから、カスタフィオーレ夫人のパフォーマンスと比べてみるとおもしろいですよ。そういえばロッシーニの「泥棒かささぎ」(村上春樹の小説『ねじまき鳥クロニクル』第一部のサブタイトルにもなっていましたね)がオチで使われていた回もありましたし、タンタンとオペラの関わりは意外にあるようです。ちなみに作者エルジェはオペラ嫌いでしたが、タンタンの制作にも協力した親友の漫画家エドガール・P・ジャコブスは元オペラ歌手でした。

ルイ・ド・フュネス──愉快な小さいオジサン

一條 由紀

 

正直言って、ふだん私はそれほど映画を観ません。最後に映画館に行ったのはいつのことだったのか、考えないと思い出せないほどです。DVDなどのレンタルもほとんどしません。とはいえ、テレビで放映される映画を観ることはあります。そして時には、それが大きな発見をもたらすこともあるのです。

 

今をさかのぼること数年前、当時フランスのとある地方都市に留学中だった私は(町にあまり娯楽がなかったため)よくテレビを観ていました。そして、夏休みのある日、映画『ファントマ』に出会ったのです。怪盗ファントマ──それは、第1次世界大戦直前のフランスで大ヒットしたピエール・スヴェストルとマルセル・アランの共著になる連続小説の主人公、ロベール・デスノスをはじめ、詩人・作家たちをもとりこにした犯罪の天才で変装の名人…。すでにそうした漠然とした知識はあったのですが(千葉文夫先生の『ファントマ幻想』のおかげです)こんな映画があったなんて! しかしながら、いつしか見たイラストでは、ファントマは黒い燕尾服にシルクハット、顔の上半分は黒いマスクで隠されており、私はアルセーヌ・リュパン風な怪盗を勝手にイメージしていたのですが…。テレビ画面に映し出されたのは、ビシッと現代風のスーツを着こなした、まさしく怪人=怪しい人でした。なにしろ、頭全体が緑青色のマスクですっぽり覆われており、あたかも顔色の悪い犬神スケキヨのようなのです。しかも、それを演じているのが、コクトー映画でおなじみの名優ジャン・マレーだというのですから(彼は一人二役で、ファントマを追う新聞記者ファンドールをも演じている)私は非常な興味を持って映画を見始めたことです。しかし、私の興味はしだいに怪人からそれていきました。アクションも表情も大仰な小さいオジサンが画面狭しとちょこまか動き回り、ファントマ以上の存在感を醸し出していたのです。それこそがファントマの宿敵ジューヴ警視であり、私とルイ・ド・フュネスとの出会いでした。

Paris, je t’aime について

山崎 敦

 

近所のレンタル・ビデオ店でなにか授業に使えそうなフランス映画はないかと探していたら、新作コーナーに『パリ、ジュテーム』という、そのままの題名の教科書があってもおかしくない、あまりにもベタなタイトルのDVDに目がとまった。フランス語のクラスで「パリ、ジュテーム」とはなんとも気恥ずかしいじゃないかと苦笑しながらケース裏面の紹介文に目を通してみると、かれこれ2年ほど前、旅行で訪れたルーアンの通りがかりの映画館で目にとめたが結局上映時間が合わずに観そびれていた映画であることに気がついた。あの時は、この『パリ、ジュテーム』の代わりに『血と骨』というむごたらしい駄作を観たのだけれど、それはともかくも、当時暮らしていたパリをたった数日離れただけで、旅先で「パリ」と名のつく映画に引き寄せられていたことに今更思いあたり、自分の度し難い「パリ憧憬」ぶりを思い知らされるようで、いっそう気恥ずかしい思いがした。そんな気恥ずかしさをもてあましながら、このパリ全20区のうち18区をそれぞれ舞台にした、18人の監督によるいずれも5分たらずの短編の数々を観てみると、見覚えのある通りや街区がいくつか出てきたことはたしかだが、意外なことにさほど懐かしさが胸にこみあげてこなかった。フランス語の教材探しという下心もあって前半こそ画面に集中していたが、始まっては終わり終わってはまた始まるという、せわしない反復にしだいに疲れてきて、最後の一篇であるアレクサンダー・ペイン監督による14区にたどりついた時には、ようやくこれで終わってくれるのかとほっとした。

 

この最後の14区を舞台にした短編はフランス語教材にうってつけの映画だった。なにしろこの短編の全体にかぶせられているナレーションはフランス語教室において朗読されている作文という設定なのだから。冒頭の何も映っていない暗い画面に、フランス語教師とおぼしき人の「次は誰が読むの?」という声が響き、女性なのか男性なのかどうにもはっきりしない声音で誰かが « Moi »と応え、その作文の朗読が始まる。だんだん画面が明るくなってくると、ある駅前の広場が浮かびだし、次に画面が変わると夜明けのホテルの室内で、その朗読者である女性が広場を見下ろすかたちで窓際に立っている。朗読のフランス語はすぐそれと分かる英語なまりで、画面に映っているのが女性でなければ、男が喋っているのかと思いこみかねないほど低い。そんな声にいかにも似つかわしいずんぐりとした体形のおばさんが目許にすこし悲しげな色をみせて窓際に立っているのだ。色合いがはっきりしないくせに妙に派手でもあるパステルカラーのシャツを着て、足許はスニーカー、そしてコットン・パンツの丈はかなり短くて白い靴下が覗き、ウエストポシェットをぶよぶよとした太鼓腹の下に「まわし」のように締めている─そんなデンバーからやってきた郵便配達のおばさん。パリに来たいがためにフランス語を習いはじめ、2年後にこうして6日間の予定で憧れの地を訪れたものの、最終日になるまで時差ぼけが抜けきらず、美術館をはじめ一通りパリ観光らしきものをしたにはしたが、さっぱり心が浮きたたない。「パリは芸術家の街とか恋の街とか言われているけれど、自分にはまるで無縁なのだ」──通りすがりの「パリジャン」にフランス語で訊ね、そして英語で薦められた中華レストランの、パサパサとした焼飯を馴れない箸でつつきながら、そんなことを思いもする。せっかく勇気をだして « Est-ce que vous savez où est un bon restaurant par ici ? » と訊ねたのに、にっこり微笑みながら« par ici ? »の語尾を精一杯上げてみせたのに、英語で返事を返されたあげく中華レストランを薦められては、観光気分は浮き立ちようもない。でも、街路をあてどなく散策するうちにいつしか異国情緒にうっとりもしてきて、「もし私がここに生まれたら、もし私にお金があったら、ここで暮らしていけるだろう」と、たぶん習い覚えたばかりの条件法を使ってその感動を表現しようとしたら、条件法の活用には失敗、« vivre »の発音には苦しげにどもってしまう。モンパルナス墓地では「ボーヴォワール」の発音に失敗して「ボリヴァー」と言ってしまうし、あたりの雰囲気に染まって亡き母と妹の追憶に耽ってしまい、自分が死んだところで誰も墓参りに来てくれないにちがいないと悲しくなる。それでも、モンパルナス・タワーの展望台からパリを俯瞰しつつ「それでもかまわない」と開き直ってみせるが、こんなすばらしい景色が眼前にひろがっているのに « C’est bon ! »と言える相手がどうして隣にいないのか──そう呟いてまた悲嘆にくれてしまう。そして、11年前に分かれて今では3人の子持ちになっている昔の恋人が隣にいてくれればと埒もない夢想に耽る。

スイス・アパート メント

小出石 敦子

 

まだ六年も経っていないのに、随分昔のことのように思える。いや、いったいあれは本当のことだったのかとさえ思えるときがある。私のスイス留学のことだ。留学といえば、未知の国、未知の人々との出会いであるし、日本では経験できない「何か」が待っているような、不安とそれ以上に期待に胸を高鳴らせる経験であるはずだ。たしかに、初めてスイスに旅立ったときの私は、もっと若かったし、心逸る思いだった。長く付き合える異国の友に出会い、心踊ることがあったのもその時だ。だが二度目となるとそうもいかない。もちろん、博士論文完成のために、読むべき文献の山山と歩むべき長い道のりが、湖の彼方で雄大に聳えるアルプスの山山や、カウベルをならしつつ牛たちが長閑に草を食む草原のイメージよりも、重く心にのしかかっていたからには違いない。スイスに向けて日本を離れるときの私の心境は、「行きたくない」であった。そして日本に戻ってきたときの感想は「やっと終わった」だ。これではさぞ辛い留学生活であったろうと想像されるが、スイスにいた四年と九ヵ月、実は淡々と日々を過ごしていた。今振り返ってみると、その歳月は、苦労して手に入れた学位記の紙片同様、薄っぺらで厚みがなく、いくつかの情景のイメージの断片として記憶されている。これが、正直なところ、四年九ヵ月にわたるスイス留学が私に残したものである。

 

今日はこのイメージの断片のいくつかをお話しする。ある青年と娘についてである。私がスイスで暮らしていたアパートの住人だ。といってもそれは、恋慕の情によって美化される恋人の面影のように心を酔わせるイメージでも、誰もいない暗い夜道で突然車のライトに照らし出されたときのような鮮烈なイメージでもない。それは、何でもない日常のほんの一瞬をそのままファインダーにおさめた写真のようなもので、普段は押入れの奥にあって、たまに大掃除をするために、雑然と詰まれたガラクタどもを掻きわけたとき、あの少し色褪せた状態で見つかる写真である。何でもないイメージだが、たしかにこんなこともあったなという気持ちにさせるイメージなのだ。

「マンガ」そして「ジャパニメーション」……

加倉井 仁

 

早稲田大学文学学術院のフランス語講師陣による「リレー・コラム」というコーナーの中で既に、中島万紀子先生が「フランス語マンガとわたし」というタイトルで、さらに、古永真一先生が「タンタンを聴く、着る、旅する」というタイトルで、フランス(語)の漫画というか、「バンド・デシネ(bande dessinée)」を題材にコラムを書かれています。
このコラムのタイトルを一目見てお気づきのように、僕も、「manga」と「japanimation」を叩き台に話をさせていただきます。「ワセダのフラ語の先生はどんだけぇマンガ好きなんだよ」とあきれないでください。
さて、最初に言っておきたいのですが「あえて言おう(元ネタが分かる人だけ笑ってください)、フランス(語)<の>漫画である『バンド・デシネbande dessinée』と『マンガ manga』はまったく別物である、と」。

こう言ってよければ、全ての面において<文法>が違うのです。物語の文法、コマ割りの文法、絵の描き方、「bandedessinée」と「manga」は別物なのです。そして今回このコラムで取り上げるのは後者の方です。
さて、「manga」という単語を聞いてすでにピンときた人もいると思うのですが、フランス語で「le manga / un manga」と言えば、日本語の「マンガ」と同じモノを指し示します。というか、そもそも日本語です。
僕は、2004年の9月から約二年間フランスに留学していたのですが、渡仏以前から、フランスでは日本の「マンガ」が流行っていると聞いていました。たとえば「Olive et Tom」というタイトルで『キャプテン翼』が翻訳され、アニメになっているとか(ちなみに、オリーヴが翼でトムが若林です。ネット上にはトムが岬くんという情報がありましたが、あれは誤りです)。とはいえ、フランスに行く前は話半分、日本のマンガやアニメなんてそれほど流行ってないんじゃないの、と思い込んでいたのです。

 

しかしパリに着いてビックリ。
ソルボンヌの近くにある「Gibertジベール」という本屋や、「Fnacフナック」という家電を中心にした量販店(僕のイメージではビックカメラやヨドバシカメラに近い……そのようなタイプのお店)には、日本のマンガのフランス語版が所狭しと置かれ、DVDのコーナーでは、ジブリ作品(その時は『魔女の宅急便』)が週間売り上げ第一位を占めていたような状況だったのです。

テレビでは、もちろんアメリカのアニメーションもやっていましたが、『ドラゴンボール』や『聖闘士星矢』といった日本のアニメ、いわゆる「ジャパニメーション」が多数放映されていました(ちなみに『頭文字D』をテレビで観た時には、こんな北関東の峠のカーバトルという題材をフランス人はどう受け取っているのか謎でした)。

テレフォン・アラブ

中野 茂

 

当時私は、パリで楽しい留学生活を送る目論見が見事にはずれ、執筆中の博士論文が遅々として進まず、研究対象としていた19世紀小説の情けない主人公よりもさらに冴えない日々を送っていた。そんなある日、寒く連日雨のパリの冬に耐えきれず、私はパリ―マラケシュ間の格安チケットをインターネットで購入し、小さなリュックサック一つを背にシャルル・ド・ゴール空港に向かっていた。実は昔見た映画で名前を知っていたカサブランカに行きたかったのだが、予算の都合でマラケシュ行きに変更を余儀なくされたのだった。

 

搭乗口前の待合室では、クラブメッドに行くのか、もうヴァカンス気分を楽しんでいる若いフランス人のグループが陽気に騒いでいた。そして夕刻、飛行機はモロッコに着く。機内のアナウンスとともに乗客から大歓声が起こる―「マラケシュの現在の気温26度」。

空港からのバスもホテルも、そしてもちろんレストランも予約していない私は、Le guide routard(ミシュランの旅行ガイドよりもお手ごろの宿やレストランのリストが掲載されている)をめくりながら安宿を探していた。すると程なく、子供たちが私の後をつけているのに気づいた。フランス語で陽気に話しかけてくるので、ホテルを探しながら散歩をしているとだけ答え、おかまいなしに気の向くままに歩いていた。あちこちの広場で、絨毯商や大道芸人の掛け声が陽気に響きわたり、香辛料と肉の焼けるこうばしい香りと広場の喧騒があいまって、北アフリカの不思議な夕刻の時間を作り出していた。

 

すると、40歳前後の年恰好の日に焼けた肌の男性が、「ボンソワール・ムッスィュー」と丁重に声をかけてきた。 ──ホテルを探しているなら、安いいいホテルがあるよ。── いつもならすぐ人を信用する私も、さすがにその時ばかりは警戒し、泊まりたいホテルはもう決まっていると答え、ガイドブックに載っているホテルの名前をいくつか告げる。すると男は、今晩そこはみな満室だというのであった。だまされるものかと心の中で思い、彼の助言を無視し迷路の街を歩きながら、お目当てのホテルに行ってみると、なんとすべて満室。途方にくれていた私に、どこからともなく、先ほどの男性が現れ、もっと安いホテルに案内しようという。少し躊躇ったが、私は何一つ盗られて困るものもなかったので、彼に案内されるままに、安ホテルにチェックインし、パスポートと空港で両替した現地通貨ディルハムを財布に詰め、世界遺産に登録されたばかりの旧市街をふらふら歩いていた。歩き疲れレストラン街の前にさしかかったとき、先ほどの男が再び登場し、私に何が食べたいかたずねるのであった。私がモロッコ名物のタジーンの名前をあげると、地元で評判のレストランを教えてくれるという。観光客とみなされるのを嫌いガイドブックをホテルに置いてきた私は、彼に導かれるまま、旧市街の奥まったところに位置し地元客で賑わっている店に入る。私が食事を始めると、彼は横のテーブルでテレビを見始めるのであった。ばつの悪い私は、彼を私のテーブルに誘い好きなものを頼むように言うと、彼は何もいらないと答え、私が当時吸っていたマールボロ・ライトを一本せがむのみであった。彼の目的は、最後までわからなかったが、私が別れ際にポケットにあった新しいマールボロ・ライトを一箱プレゼントすると、喜んでくれた。

あるフランス音楽(?)の話(1)

門間 広明

 

みなさんはフランスの音楽というと何が思い浮かぶでしょう? 歴史的に多くの才能を輩出してきたクラシック、あるいは日本では「シャンソン」「フレンチ・ポップス」と呼ばれることの多いヴェリエテでしょうか? 80年代の終わりからフランスが流行の発信地となったワールドミュージック、あるいは90年代以降活気づいているロックやラップ、それに最近はスラムなんかを聴いている人もいるかもしれません。仏文の先生にもこれらの音楽に詳しい方が何人もいらっしゃいます。しかし私は、恥ずかしながらこれらの音楽についてはあまりよく知りません。そんな私がここで、大胆にも(?)おすすめのCDをいくつか紹介してみたいと思います。以下で取り上げるのはメジャーなメディアではあまり話題になることのない音楽ですが、これらもまた「フランスの音楽」の隠れた水脈をなしているのです。……などと書いてみたものの、実はただの個人的な趣味話です。先生にコラムの執筆を頼まれたものの、私はつまらない人間なのでこれくらいしか書くことがないのです。(以下、興味を持ってくれた人が情報検索しやすいように、固有名にはアルファベット表記を付記しています。ただし日本でも有名なものについては省略します。)

 

最初は、コレット・マニーColette Magnyという歌手のVietnam 67- Mai 68(Scal’ Disc, CMPCD07)という作品です。

1963年のフランスで、それまでまったく音楽教育を受けたことのなかった36歳の女性が、17年も勤めたO.C.D.E.(経済協力開発機構)での秘書の職を辞し、歌手としてデビューしてしまいます。それがコレット・マニーです。彼女の魅力は、まずはその声にあるといえます。どっしりと安定感があり豊かな倍音を含むその声は、簡単にいえば黒人のブルースシンガーのそれに近いものです(まあこ の動画を見てください)。声そのものの魅力もさることながら、歌手としての実力も疑いようありません。しかし本当に驚くべきなのは、彼女がデビュー後数年にしてメジャーなシーンから完全に撤退し、音楽的かつ政治的にきわめてラディカルな試み乗り出すことです。60年代後半に発表されたVetmnam 67とMagny 68というアルバムは、アンガジェ(政治参加)した歌手としての、彼女の初期の傑作といえます。この2枚のカップリングとして再発されたのが、ここで紹介するVietnam 67- Mai 68です。ここではジャズや現代音楽畑のミュージシャンとともに先鋭な音楽的試みが行われ、そして歌詞はそのほとんどが政治的な内容になっています。遠くから響いてくるようなパーカッションの音に乗って、広島の被爆者について歌われる”Bura Bura”という曲がとりわけ印象的です。

同時期のジャズとヴァリエテのコラボレーションといえば、すぐ思い浮かぶのは1969年のブリジット・フォンテーヌとアート・アンサンブル・オブ・シカゴによる『ラジオのように』ですが、コレット・マニーの作品はそれと比べてもはるかに政治的な歌詞が特徴です(おそらくそれが原因で、知名度ではずっと劣っているわけですが)。ともあれどちらも傑作といえる作品なので、この二枚を聴き比べてみるのも一興でしょう。 コレット・マニーは以後も、歌詞においてさまざまな政治問題を取り上げ、またラルースのフランス語辞典の”marche”の項をそのまま歌ったり、アントナン・アルトー作品の朗読を収めたレコード発表したりと、ユニークな活動を続けてゆきます。しかし彼女はメジャーなメディアでは無視され、その曲がラジオでかかることはほとんどなくなります。64年にはオランピア劇場でクロード・フランソワとシルヴィ・ヴァルタンと共演した歌手がこのような経歴をたどったこと自体驚嘆すべきですが、その作品の圧倒的な力は、彼女の選択の正しさを余すところなく証明しています。

La vie est très dure…. ああ無常!

齋藤 公一

 

ときおりぼくは、天国はどうやってでき、死はどうやって生じたか、考えてみることがある。つまりは、ぼくたちがぼくたちのいちばん貴重なものを、ぼくたちから押しのけてしまったからなのだ。というのも、そのまえにまだしておかねばならないいろいろなことがあったからだし、また忙しくしているぼくたちのところでは、そんな貴重なものは安全ではなかったからだ。

リルケ『マルテ・ラウリス・ブリッゲの手記』(塚越敏 訳)

 

 

加藤雅郁くん(彼が学部のときから知っていて、同郷で、年の離れた弟のような存在だったのでいつもこう呼んでいた)が2012年11月2日に逝ってしまった。今思えば、働きすぎだったのだろう。月曜日から土曜日まで授業が詰まっていた。でも手を抜くことをしない人だった。自分にとってだけでなく、学生たちにとっても面白いこと、楽しいことを追求するのが君の信条だった。授業だけでなく、研究や翻訳などを通して、君の愛するフランスを紹介し、さらにフランスを愛する人どうしを引き合わせ、その関係を深くしていくことに労を惜しまず、君自身もそれを楽しんでいたようだ。そのなかでも君の第一の功績、誰もやったことのない素晴らしい業績は、『ブドウ収穫隊』と言えるだろう。

 

さまざまな大学(多い時は10大学)から募集した約40名の学生たちと約2週間、ボルドー、ブルゴーニュ、年によってはシャンパーニュ、アルザスのいくつかのドメーヌを巡り、最後はコルシカで実際にブドウ畑で収穫に打ち込む、そういう企画だった。君自身も自負していたはずだ。ある大学の学生たちに覇気がないのを見て、君は「じゃあ、フランスへブドウ収穫にでも行くか!」と誘ったのが伝説の始まりだった。君は休みを利用してフランスへ行き、学生たちに収穫をさせてくれるワイナリーを探し、訪問のできそうな作り手を訪ね歩いた。パリで橋本克己氏(千葉商科大学)から友人ディディエ・ピエラ氏を紹介してもらい、フランスでの活動を充実させていった。以後ディディエとは兄弟のようにつきあっていた。1999年に第1回目の『ブドウ収穫隊』を実施。旅の最後の打ち上げの夜に君が涙ぐんだ光景が今でも目に浮かんでくる。実現までにとても苦労したと思う。君と、君がフランスでの教員研修で一緒になった小林正巳氏(文京学院大学)と中央大学出身の杉村裕史氏そして僕との4人で、2003年までは毎年、2005年以降は1年おきに実施して、去年(2011年)で9回目になった(8回目と9回目は慶応出身の塚越敦子氏にも手伝ってもらった)。来年は10回目になるはずだった。ちょうどきりもいいので最後にしようか、最後だから今までに行った土地を全部廻ろう、などということを小林氏と打ち合わせしたのが、倒れる前の日(10月27日)だった。君はとてもはりきっていた。

『シュルレアリスムと美術』展(横浜美術館 2007年9月29日~12月9日)

鈴木 雅雄

 

会期末が近いのですが、横浜美術館で開催中の『シュルレアリスムと美術──イメージとリアリティーをめぐって』と題された展覧会についてレポートします。これを読んでいくらかでも興味を持ってくれた人は、もうあまり時間がありませんが、足を運んでみてください。

 

具体的な情報は、以下のページを参照してください。

http://www.yaf.or.jp/yma/

 

 

国外のコレクションから借り出したものもあるとはいえ、この展覧会は基本的に、宇都宮美術館、豊田市美術館、横浜美術館の3館が所蔵する作品によって構成されたものであり、日本の美術館の収蔵品だけで、シュルレアリスムとして括られる領域の全体像がともかくも捉えられるというのは、やはり驚くべきことだといえるだろう。とりわけ横浜美術館は開館以来シュルレアリスム美術を積極的に紹介してきており、常設展示でもつねにひと部屋はこの系列の作品にスペースが作られているほか、マッソンとマッタを抱き合わせにした展覧会や、とりわけ見事なウィフレド・ラムの展覧会などで実績を残してきた。今回も125点の出品作品のうち実に半数以上は横浜美術館の収蔵品だが、今回展示されているものも所有する作品の半分に満たないという話で、この分野の収蔵品は日本のなかでは群を抜いた量であることを実感できる。

全体は、「シュルレアリスム以前」、「シュルレアリスム」、「シュルレアリスム以後」という3つの大きなセクションに分かれており、中心となる第2部はさらに7つの小セクションに分割されている。第2部の小テーマのなかには、「女と愛」、「神話と魔術」といった主題的なものだけでなく、マッソンやミロのオートマティックな傾向の強い画面、エルンストのフロッタージュ、ドミンゲスのデカルコマニーなどを集めた「イメージが訪れる」、エルンストのコラージュ=ロマンの図版を中心に構成した「反物語」、しばしば指摘される通りシュルレアリスム絵画のなかで重要な役割を果たす地平線の問題を捉えようとする「風景」などのセクションがあり、単に不可思議なイメージの集積というだけでなく、より構造的・方法論的な次元でシュルレアリスムを考えようとする姿勢が読み取れる。

ダリやマグリットといった特に認知度の高い画家、あるいは日本にマニアックなファンの多いベルメールの前で立ち止まる来場者が多いのはいたし方ないが、まったく個人的な趣味でいえばやはりラムの大画面は圧倒的であり、常設でも展示されていることの多いエルンストの《少女の見た湖の夢》のなかに、今まで気づかなかった愛らしい動物たちをまたいくつか見つけることは、やはり何といっても楽しい。またコーネルのボックス・コンストラクションが2点出品されているが、写真複製で見るとしばしばお洒落なインテリアといった印象を与えてしまうコーネルの作品も、実物はむしろかなりくすんだ色合いで違和感がなかった。実はこの展覧会の関連企画として(美術の専門でもない人間がそんなことをしていいのかと思いながらも)シュルレアリスム美術についての講演をする機会があり、その折にカタログにも論文を書いておられる学芸員の中村尚明さんに会場を案内してもらえたのだが、そのときに今回の展示では、コーネルの3点がすべてエルンストと隣り合って配置されていることを指摘され、何かとても納得した。30年代のコーネルのコラージュを見ると、彼にとってエルンスト体験がいかに決定的だったかを再確認できるし、《ソープ・バブル・セット:コペルニクスの体系》とエルンスト70年代の《形状》を並べてみると、シュルレアリスム美術という輪郭の定まらない領域を貫く常数のひとつが、何らかの「図」のようなもの──ここではそれは太陽系や地球の構造を示す図──への関心であったかもしれないと感じることができる。重要なのはおそらく、不可思議なイメージを見せようとすること以上に、自身の体験している伝達しがたい不可思議さを、何とか図解しようとする意志なのかもしれない。

また今回の展覧会では、企画展の展示室だけでなく美術館全体がシュルレアリスムというテーマで統一されている。常設展示の部屋に入っても、ミロとデルヴォーの連作版画が大きなスペースを占めているし、写真展示室も「シュルレアリスムと写真」と題されていて、マン・レイやケルテスなどだけでなく、シュティルスキーのように、おそらくあまり目にする機会のない作家の写真も見つけることができる。中央の階段を囲んでいるのも、ダリ、マグリット、ミロ、マッソンらの彫刻作品である。

たしかに運動を代表する画家のなかで、ジャック・エロルドやヴィクトル・ブローネルが欠けているのは残念だが、レオノーラ・カリントンやレメディオス・バロなど最近では日本でも認知度の上がった女性画家たちがきっぱり不在なのも、(収蔵品の都合もあるだろうが)フリーダ・カーロの人気に乗じたりしないという意味では潔く感じられる。むしろ考えさせられるのは、第二次世界大戦以後にパリ・グループに接近あるいは加入したような画家が実際上まったく含まれていないことで、日本における受容のあり方の問題でもあるだろうが、シュルレアリスムの美術史的位置づけの曖昧さあるいは困難さを実感せずにはいられない。いい方を換えると、この展覧会の第2部と第3部の関係をどう考えるかという問題でもあるだろう。シュルレアリスムがイメージの持つ力を再発見し、のちの画家たちがそれを多様なやり方で利用していったという考え方が間違っているとは思わないが、その利用の様態は何ともつかみがたいものだ。しばしば取りざたされる抽象表現主義との関係を、この文脈ではどう考えたらいいか。40年代以降もそれなりに同時代の美術──たとえばポップ・アート──に一定の注意を向けながら進められていったシュルレアリストたちの造型表現を、どの程度どんなふうに評価したらよいのか。いやそもそも、イメージという、美術批評においても文学研究においても、無批判に使うことは久しい以前から不可能になっているこの語彙に、本当のところどんな内実を与えるべきなのか、それを考えることはおそらく、シュルレアリスム美術とは何かについて考えることとほとんど同義であるかもしれない。