Oh !

 

P1020415 Des soucoupes volantes passent au-dessus du campus. (Odile)

ブルターニュ旅行記

大須賀 沙織

 

フランス北西部ブルターニュ地方は、いにしえのケルト文化を今なお感じることのできる土地です。ケルト語系のブレイス語が話され、フランス王国から長く独立を保ってきたという歴史、フランス革命期には、農民たちが王党派と結びついて革命政府に立ち向かったこと(バルザックの歴史小説『ふくろう党』に詳しく描かれています)。フランスの中でも信仰心の篤い地方ですが、そのカトリック文化は、ローマではなく、イングランド、アイルランドからもたらされた独自のものであること…。こうした特殊性に惹かれて、ブルターニュに呼び寄せられるように、ふと思い立って旅行をしてきました。

 

パリからTGVでアンジェを経由し、ブルターニュ公国の入り口ナントへ。

 

◆ ブルターニュ大公城/ナント歴史博物館

Nantes_chateau11598年、アンリ4世がナントの王令を発布し、宗教戦争に終止符が打たれました。その舞台となったのがこのお城です。現在はナント歴史博物館になっています。

 

◆ お城の手前の広場には、アンヌ・ド・ブルターニュ(1477-1514)の像

Anne_de_Bretagneブルターニュ公国存続の危機に見舞われた際、フランス国王と結婚することにより公国を守った王妃。今も土地の人々から愛されています。

 

◆ カルナック

ナントからTGVとバスを乗り継いで、巨石文化の遺跡が残るカルナックをめざします。近くまで来たものの、車がないとどうにもなりません。困っていると、宿泊先の修道院で一緒だった地元の高校生と高校の先生が車で案内してくれることに。

carnac2

宗教儀式に使われたとも、太陽信仰に関係するともいわれる列石群。ぬかるみで靴は泥だらけになり、転ばないよう手を取り合いながら巨石に近付きます。巨石の一つに触れてみると、あたたかくて、生きているような、やさしいものを感じました。

 

 

◆ ブレスト

カルナックから車とTGVとバスを乗り継いで、知人が暮らすブレストへ向かいます。ブルターニュ地方の中でも、最西端のフィニステール県(「世の果て」を意味します)のさらに突端に位置するブレスト。車で連れて行ってもらったのはこの土地特有の「囲い込み聖堂地」(enclos paroissiaux)です。聖堂が石壁で囲い込まれていることから、こう呼ばれています。

enclos_paroissial土着の宗教では聖と俗、生と死、この世と彼岸との境界があいまいだったため、境界を認識させるため、そして家畜が入ってこないようにという実用的な理由もあって設けられたようです。

 

門をくぐると、「カルヴェール」と呼ばれる、キリスト磔刑の群像が。

Calvaireカルヴェールを見上げ、ぐるりと一周しながら、キリストの生涯と聖書の物語をたどります。

Calvaire_rameaux子ろばに乗ってエルサレムに入城するキリストを、人々は自分の服を道に敷き、しゅろの枝を持って迎えました(ここでは、服を敷く人の姿が見られます)。地上におけるキリストのつつましい栄光の場面です。復活祭の一週間前、「枝の主日」(dimanche des Rameaux)に、美しい聖歌とともに祝われます。

 

今回は駆け足で4つの囲い込み聖堂地を見て回りましたが、じっくり味わうには時間が足りませんでした…。

本当は訪れたかったドゥアルヌネ湾(海底に沈んだイスの都の伝説が残る場所で、ドビュッシーのピアノ曲〈沈める寺〉はこの伝説をもとにしています)、サン・タンヌ・ドーレー大聖堂(この地方特有の聖アンヌ信仰が見られ、ブルターニュのルルドともいわれます)、バラ色の花崗岩海岸…。いつかまた行けたらいいな…。

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参考文献

小辻梅子・山内淳『二つのケルト ―その個別性と普遍性』世界思想社、2011.

武部好伸『フランス「ケルト」紀行 ブルターニュを歩く』彩流社、2003.

中木康夫『騎士と妖精 ―ブルターニュにケルト文明を訪ねて』音楽之友社、1984.

原聖『〈民族起源〉の精神史 ブルターニュとフランス近代』岩波書店、2003.

就職活動体験記(東京都庁職員)

松岡美聡(フランス語フランス文学コース4年)

 

私は今年東京都Ⅰ類Bという公務員試験を受け、来年度から東京都庁職員として働くこととなりました。

私が公務員を志したのは3年生の秋頃で、勉強をスタートしたのもその辺りでした。

当初は、子供好きということもあり絵本の出版社など民間企業での就職を希望していました。しかし思い返すと、2年生の夏休みに一ヶ月ほどフランスに行った経験が公務員を志望したきっかけの一つとなりました。

日本は現在、低下し続ける出生率を前に子育てしながら女性が働き続けられる環境づくり、待機児童解消など新しい方策をあげています。フランスでも同様に1994年までは出生率は1.65まで落ち込んでいるのですが、そのあと保育園の整備や男性の育児参加など様々な取り組みにより2012年現在は2.01とヨーロッパ内でも高い水準に回復しました。

このような情報から私もフランスに行く前には、フランスは社会制度が整った国であるというイメージを持っていました。しかし、実際に行って印象に残ったのは路上にいる物乞いの人の多さでした。中には、障害のある子供を抱きかかえながらお金を乞う人の姿もありました。また、電車の中では子供が“お金を下さい”と書いた紙を渡してきて、お金をねだられるといった場面にも遭遇しました。

日本ではなかなか見ることのない光景ですが、フランスではそういった人の姿がかなりあります。私は衝撃を受け、社会制度が整ったはずのフランスでなぜ?と頭が疑問でいっぱいになりました。

帰国後、大学での講義のなかでフランス人の先生から、フランスが移民問題やロマ人の問題を抱えていること、先ほど述べた物乞いの人たちは多くがフランス国籍を持たない移民であるということも知りました。日本でも労働力の不足という観点から移民受け入れを訴える声もあります。今後日本で移民の受け入れが進めば、近い未来、東京でもパリで目にしたような子連れの物乞いの姿を見ることがあるかもしれません。

こういったことを知る中で、社会制度の充実とは何だろう、私にはこれから何ができるだろうと考えはじめました。

そして就職活動が近づくにつれ、モノより「仕組み」をつくる仕事をして、誰もが住みよくなる社会制度を整えたいと考えるようになりました。中でも東京都という大きな影響力のある自治体の中で誰もが住みよい街を作り、これから日本が直面する問題に立ち向かって行きたいと思い、東京都庁を受けることにしました。

 

公務員試験の勉強を開始してからは、同じ仏文コースの友人、そして先生方にとても励まされました。図書館にこもりきりの時間が続く中、仏文での授業は視野が広がる機会となり、またフランス文学を深く学ぶ友人の姿など勉強の内容は違えども、私自身も試験突破に向け頑張ろうと良い刺激をもらいました。

卒論の担当の瀬戸先生を始め、多くの先生・友人に励ましや応援の言葉をもらったおかげで無事に内定がいただけました。ありがとうございました。今後は、卒論もがんばります!笑

(その他の個人的な目標としては、フランス語の語学力を向上させて2020年の東京オリンピックで活躍できる人材になりたいです)

 

仏文は自由な雰囲気で、それぞれの学生が自分のやりたいことにしっかり向き合う時間を得ることのできる環境が整っています。また、実際にフランス人の先生とお話しできる機会が多いというのは語学力向上だけでなく、海外の問題について実感を持った話を聞くチャンスがあることだとも思います。語学や文学が好きという方だけでなく、海外の問題に興味がある人にもぴったりのコースでしょう。

 

卒業まであと少しとなってしまいましたが、残りの大学生活も仏文で有意義な時間を過ごしたいと考えております。今後ともどうぞよろしくお願いします!

2014.10.8

リヨンの街歩き

高安 理保(フランス語フランス文学コース3年)

 

目前に広がるのは、フランス第二の都市・リヨン。リヨン発祥の地、フルヴィエールの丘からの一景です。TakayasuLyon足元の森の麓には世界遺産の旧市街が、手前のソーヌと向こうのローヌ、双子川の間には新市街が広がり、歴史のグラデーションが空の青さに映えます。この街の魅力は、ピリピリと張り詰めたパリの空気とは一味違う、肌馴染みの良さ。初めてでも何故か懐かしい気持ちにさせてくれる、あたたかい街なのです。そんな心の故郷で過ごした昨夏の思い出を振り返りながら、目で、舌で、じっくり味わいたいリヨンの魅力を、少しばかり紹介してみたいと思います。

 

●リヨンのミュゼめぐり

リヨンと言えば、映画の聖地。映画の生みの親リュミエール兄弟の生地であり、世界で始めて映画が撮影・上映されたのもこの街です。…ところが、不運にもリュミエール博物館(Musée Lumière)は改装中とのことで、休館していました。しかし、ご安心あれ。リヨンには、映画好きには堪らないスポットがもう一箇所あったのです。それが、兎に角“楽しめる”博物館、ミニチュア・映画装飾博物館(Musée Miniature et Cinéma)です。賑やかな旧市街の通りで一際目立つキャッチーな入口を抜ければ、まるで映画の中に潜り込んだような異空間が広がります。展示されている映画の小道具はなんと300点以上。館内では撮影もOKなので、お気に入りの作品を見つけて自分のカメラに収めてしまいましょう。

圧倒的スケールを誇るのは地下から一階にかけての映画『パヒューム』のフロア。等身大のセットがシーンごとに忠実に再現されており、まるでむせ返るような匂いが伝わって来るようです。順路を行くにつれてじわじわ背中が寒くなるので、夏の暑い日にはぴったり。このフロアを存分に楽しむ為にも、人間の狂気を美しく描いた傑作ホラー『パヒューム』、是非予習してから行きましょう。

TakayasuParfum上二階を占めるミニチュアの展示フロアも外せません。100点以上の小さなショーケースの中に収められているのは、旧き善きリヨンのワンシーンや、絵本の中のおとぎ話の世界、はたまた日本の禅寺まで。どれも大変精巧に作り込まれているので、写真に収めてみると…あれれ?ここはどこ?私はだれ?…なんて、奇妙な感覚に襲われてしまいます。TakayasuMiniature歴史あるリヨンには、他にも魅力的な博物館がまだまだ沢山あります。リヨンらしさを思いっきり満喫したい方に是非訪れていただきたいのは、ガダーニュ美術館(Musées Gadagne)やギニョール幻想小博物館(Le Petit Musée Fantastique de Guignol)、リヨン織物装飾芸術博物館(Musée des Tissus et des Arts décoratifs de Lyon)。美術鑑賞に耽りたい方にはミュゼ・デ・ボザール(Musee des Beaux-Arts de Lyon)、読書家のあなたには印刷博物館(Musée de l’imprimerie de Lyon)がおすすめです。勿論、時間が許す限り、全部堪能出来ると良いですね。

ちなみに、様々な文化的施設について言えることですが、パスポートは持ち歩き、取り出せるようにしておきましょう。パスポート提示と「Je suis étudiant(e) .」の一言で、割引が受けられることが多くあります。ミニチュア・映画装飾博物館の場合は、通常大人料金9€のところが学生(26歳まで)は6.5€と、かなりお得になります。

 

●リヨンのおふくろの味

ミュゼめぐりで知的好奇心を満たしたら、何だかお腹が空いてきますよね。そんな時は、街のブションを訪ねて、ホッと一息つきましょう。ブションとは、リヨンの郷土料理(Cuisine Lyonnaise)を提供してくれる小料理屋のこと。お昼時や夕飯時には、美食の街リヨンの名に相応しく、軒を連ねるブションの数々が挙って良い香りを漂わせています。お料理は、ア・ラ・カルト(単品)も選べますが、ここは是非「Menu Lyonnaise」のコースメニューを選択してみましょう。前菜、主菜、チーズまたはデザートの三品が15~18€の良心的な価格でいただけます。

TakayasuCochon

さて、メニューに目を通してみると、前菜のリストの中で目を引くのが、「Cervelle de Canut」。絹職人の脳みそ…なんて、少し吃驚してしまう名前ですが、これはリヨンではお馴染みのチーズ料理なのです。TakayasuPlatフレッシュチーズにハーブやニンニクなどのスパイスを和えたものに、生クリームを加えて泡立てた、香り高い一品。その見た目や食感(!?)がまるで脳みそのようだと、このような名前が付けられました。リヨンの伝統工芸を支える絹職人さんの朝には欠かせない、まさにリヨンのおふくろの味だと言えます。

また、愛らしい豚ちゃんのイラストからも伺えるように、リヨン料理の特色は豊富な臓物料理にアリ。主菜のリストにズラリと並ぶ臓物料理の中から、「Saucisson Chaud」を選んでみました。これは、極太のソーセージを分厚くスライスして、赤ワインでグツグツ煮込んだもの。その名の通りアツアツで食べ応えたっぷり、満足度の高い一品です。

TakayasuSaucisson

勿論、リヨンの街中には、お料理だけでなく、ジェラートやクレープなどのスイーツ屋さんも沢山ありますよ。女の子同士でプチグルメツアーなんて企画しても素敵ですね。見た目にもカラダにも嬉しい彩が素敵なリヨンの味覚、是非現地でご賞味ください。

TakayasuPortrait

リヨンでの3週間

鈴木 麻希(フランス語フランス文学コース3年)

 

私は大学2年生の春期休業を利用し、フランスのリヨンへ短期留学に行きました。3週間という短い期間でしたが、今まで漠然とした印象しか抱けなかったフランスという国で実際に生活し体験したことは、私にとって大変貴重なものとなりました。

SuzukiMakiLyonパリから国内便で1時間のところにあるリヨンは、古くから絹織物などで栄えた街です。1988年には、中世から残る旧市街地(Vieux-Lyon)が世界遺産に登録されています。紀元前のローマ植民地時代の遺跡も点在しており、歴史が感じられる街です。「星の王子さま」の作者サン=テグジュペリの生地としても知られています。観光客は比較的少なく治安も安定していたため、落ち着いて快適に過ごすことができました。

私が通ったのはLyon Bleu Internationalという語学学校です。建物の一階部分のみという小さな学校でしたが、設備は整っておりスタッフは気さくな方ばかりでした。授業は文法、語彙、聞き取り、作文、会話などバランスよく、かつ日々変化に富む内容でした。10人前後という少人数で構成されるクラスは、韓国、ノルウェー、スイス、ドイツ、イタリア、スペインなど国際色豊かで、フランス語の授業を受けながら絶えず様々な異文化に触れたことは非常に刺激的でした。放課後には市街散策やシネマクラブなどのエクスカーションが設けられており、任意参加ですがほとんどが無料のため気軽に参加できました。特にスタッフの案内つきの市街散策は豆知識なども聞けて面白かったです。

SuzukiMakiRue滞在形式として私はホームステイを選びました。ムッシュとマダム、息子さんのもとで、私以外にも韓国人とスイス人の学生が同様にステイしていました。日本では机上の勉強が大半でしたが、ホームステイでは生活そのものが学びの場です。朝の挨拶から何気ないおしゃべり、家族がそろう夕食時など、あらゆる場面が私にとって日々勉強でした。食卓ではそれぞれの国の話になることが多く、日本人として話をしたことは自分の国を客観視するきっかけとなりました。また私は日課として、フランス語で記録ノートをつけていました。今日の授業はどうだったか、放課後はどこに行き何を感じたか、夕食ではどんな話をしたのか、また会話で出てこなかった単語など、あらゆることを書き留めていました。授業以外にもステイ先でこのように有意義に過ごせたことに関して、ホストファミリーの存在はとても大きかったと思います。

 

語学留学の目的はもちろん語学力の向上ですが、それだけではありません。私にとってこの留学で最も印象的だったものの一つは、「フランスで生活したこと」です。フランスで寝起きをし、空気を吸い、食事をし、勉強するなかで、フランスに対する新しい印象が毎日少しずつ蓄積されました。また帰国後、勉強をはじめ様々なものに対する姿勢も変わりました。SuzukiMakiPortrait3週間はあっという間です。しかしこの期間設定は、一日一日を濃いものにしようとするきっかけを与えてくれました。そしてその中で、何事も自分の行動力と決断力次第だということを改めて実感しました。短期留学とはいえそこには楽しさと同じだけ、またはそれ以上に不安やもどかしさ、悔しさなどが伴います。ですが、大学生という時期に得るこのような経験は、帰国後の大学生活だけでなく、その後の人生の大きな糧にもなります。今回の短期留学を通して、日本の外に出て学ぶことは思っている以上に素晴らしく、意味のある経験であると実感しました。

モントリオールのコリアン

片山 幹生

 

2013年7月末から8月にかけての3週間、私はケベック州政府が主催するフランス語教授法の研修に参加するため、モントリオールに滞在した。カナダのケベック州の人口は約800万人で、その8割はフランス語話者であり、州の公用語はフランス語である(カナダは州ごとに公用語が定められている)。モントリオールはケベック州最大の都市で、フランス語ではモンレアルと呼ばれる。
研修はモントリオール大学で行われ、日本人6名、韓国人3名、ラオス人2名の給費研修生の他、自費参加のケベック人1名、他の州からやってきた英語話者のカナダ人5名が参加していた。研修生はいずれもフランス語教育に携わる人間だったが、教えている対象は大学だけでなく、高校、小学生など様々だった。

私は韓国映画のファン、とりわけ女優ペ・ドゥナの熱心なファンであり、韓国人指揮者のチョン・ミョンフンを崇拝しているのだけれど、韓国映画やチョン・ミョンフンの音楽を知るはるか前の高校の頃から何となく韓国に興味を持っていて、パリでの留学先でも韓国人と親しくなることが多かった。日本、とりわけネットの世界では、反日や嫌韓がグロテスクに強調されることが多いけれど、私がこれまで知り合った韓国人は、情が厚くて、人なつこい、好奇心旺盛、礼儀正しく、繊細な気遣いがある、はっきり意思表示するといった性質を持っている人が多かった。今回のモントリオール大学の研修で出会った韓国人の先生方も私が持っている韓国人イメージそのままの気持ちのよい人たちばかりで、研修中には数度にわたって一緒に外出し、食事をとった。
今回の研修で親しくつきあった韓国人たちのなかでもとりわけ強い印象を残したのは、韓国系カナダ人のマリーさんだった。彼女は現在はカナダ国籍なので、正確に言えば韓国人ではないのだが。15年ほど前に夫と子供二人でカナダに移住し、オンタリオ州にあるカナダ最大の都市、トロントに住んでいる。上の子供はもう働いていて、下の子供は高校生だとのこと。マリーさんの年齢はおそらく私と同じくらい、40代半ばかあるいはもうちょっと上ぐらいだと思う。研修ではよく発言し、質問する人だった。教室外で最初に彼女と話したのは、モントリオールの花火大会に出かけたときである。研修の授業中にモントリオールの花火大会の話が出て、そのときに彼女はクラス全員に花火大会へ一緒に出かけないかと提案したのだ。この花火大会には結局、日本人5名(私を含む)、韓国人1名、そしてマリーさんで一緒に行った。花火会場に行く前に、夕食を一緒にとったのだが、そのときの雑談で彼女が15年ほど前に家族でカナダに移住した移民一世であることを知った。

「カナダへの移住は、大きな決断だったでしょうね?」と尋ねたとき、
「いいえ。移住を決めたときには、私はそれが大きな決断だとは思っていませんでした」
と彼女はさらりと答えた。夫が移住を決めて、彼女も反対することなくそれに従ったと言う。
自分には予想外だったこの返答に私はなぜか感動を覚えた。
あとになって平田オリザの『その河をこえて、五月』という演劇作品を思い出した。日韓交流事業の記念公演として2002年に新国立劇場で初演されたこの作品は、ソウルの語学学校を舞台としている。韓国人と在日コリアン、日本人留学生とのコミュニケーションが描かれたこの作品では、当時の韓国の若い世代のカナダ移住について言及されていた。マリーさんがカナダに移住したのはちょうどこの作品が初演された時期と重なっている。

《専用》エレベーター

川瀬 武夫

「それを聞いて、なんという見事な問題解決法だろうとおれは思ったね」と、Kが感に堪えたような顔つきをした。Kとはもう10年あまりも前のパリ留学時代の仲間で、今回もたまたまそれぞれの勤務先の大学から1年間の研究休暇をもらって、こうして共に懐かしの都へまいもどってきたというわけである。
なにかにつけ目端のきくKは、パリに着いて数日もしないうちに、お屋敷街の16区に立派なアパルトマンを借り、まだ仮住まいのホテルにくすぶっていた私を呼んでくれた。今世紀初頭に有名な建築家のギマールが設計したという堂々たるアール・ヌーヴォー建築の、日本式にいえば4階にあるそのアパルトマンに私を招き入れると、やおらKがプラスチック製の黒いマッチ箱のようなものを掌に取り出して見せた。「ここに入居するとき、家主が鍵と一緒に渡してくれたものだよ。こいつは一種の発信装置で、これをチカチカやるとエレベーターが作動するという寸法だ」そういえば、さっき上がってくるとき、Kのやつが妙なことをしていたなと思いあたった。「たかがエレベーターひとつに、ご大層な仕掛けじゃないか。外部の人間には勝手に使わせないということか」「いや、眼目はそこじゃないんだ」Kが得たりとばかりに答えた。「家主の説明によると、ここのエレベーターは去年設置されたばかりのものだ。なんでもその費用分担の件で、ずいぶんと揉めたらしい。下の階に住む連中はそんなものはいらないというし、上の方の階にいても、年金暮らしで余分な蓄えのない老齢世帯は話にのらなかったそうだ。それで結局、有志のみが金を出すことになった。そうして彼らにだけこいつが配られたというわけさ」「すると、同じ建物に住んでいながら、エレベーターを使える人間と使えない人間がここでは差別されているというわけかい。これは小金持ちだけの専用エレベーターなのか」あまりの意想外のことにあっけにとられ、つい詰問口調になってしまったようだ。Kがきらりと目を光らせた。「まさか君まで、年寄りがかわいそうだの、弱者切り捨てだの、センチメンタルなお題目を並べるつもりじゃないだろうな。たしかに日本じゃ、決してこうはいかないさ。話がつかないままエレベーターの件はお流れになるか、さもなきゃ有形無形の圧力に負けて、なけなしの貯金を吐き出さされるのがおちだろう。こんな思いきった解決法は、誰も考えすらしないはずだよ。だが、いいかい。こうして金を払った者がはっきりと目に見える形で権利を保証される一方、払いたくなければその自由も当然のように尊重される。なんとも合理的で、明快なやり方じゃないか。おれはいまさらのように、フランスというのは本当に大人の国だと思ったね。それがおれには、この国に生活していて実に気分のいいところなんだ」

Kの意見に一理あることは認めざるをえなかった。曖昧な感情論に流されず、あくまでも理性的に問題解決にあたることこそ、まさに彼のいう〈大人〉の態度というものだろう。うわべは非情に見えることが、ある種の勇気であったりすることも分からぬではない。そして、われわれ日本人にとって、そうした態度をとりつづけるのが、いかに不得手であるかということも。
それでも、と私は思う。非情の産物だか、勇気の結果だか知らないが、とにかくこのエレベーターが作られるまで、ここの住人たちのあいだにもさまざまな心の葛藤があったのではないか。重たそうな買い物袋をさげて、狭い階段をとぼとぼと上がっていく老婆の後ろ姿を、いまでもなにがしかの辛い感情を込めて見送っている住人もきっといるにちがいない”"。

すでに夜も更けたので、私は釈然としないままKのアパルトマンを辞した。エレベーターの前に立とうとすると、Kが「ああ、忘れてた」といって私の肩ごしに例のチカチカをやってくれた。  鈍いうなり声をたてながら、〈専用〉エレベーターが上がってくる。

[付記]このエッセーは筆者の1993年度在外研究期間中にパリで書かれ、同年7月16日の読売新聞衛星版(ヨーロッパで発行)に「合理的過ぎる?解決法」という、あまりといえばあまりのタイトルを付せられて掲載された。今回の再録にあたってタイトルをオリジナルのものに戻した次第である。

龍の名前

鈴木 雅雄

 

5年生に上がるとき、僕ははじめて中村**と同じクラスになった。新しいクラスで、勉強にしろ運動能力にしろ、彼は決して目立つ生徒ではなかったと思う。それでも彼が周囲から特別な存在と見なされるようになったのは、超常現象や魔術に関する厖大な知識のせいであったし、とりわけ新学期に入って間もなく「こっくりさん」が流行したとき、狐か何かの霊に教卓の花瓶の花を散らせるよう命令し、それに成功して以来のことだった。

 

知り合いになってみると、たしかに中村**は常軌を逸した小学生だった。決して裕福な家ではなかったはずだが、彼の部屋のガラス棚には高価なタロット・カードが積まれていたし、なぜか日本の警察機構に関する本などを読んでいて、警察もずいぶん悪いことをしているんだよなどと言っていたものだ。あるときは部屋に透明な小型ピラミッドを置き、その中にミカンの皮を入れて観察していたが、何のためかと尋ねると、ピラミッドの四方を正確に東西南北に合わせると中の食物は腐らないことを証明する実験なのだと言う。別の日にはセミの抜け殻集めに付き合わされたが、袋一杯の抜け殻を集めたあとでこれをどうするのかと聞くと、すりつぶして漢方薬にすると風邪に効くという話だった。

 

だが僕が彼と親しくなったのには特別な事情があった。ある日突然、彼は数人の友人を連れて僕の家に遊びに来ると、今日は大切な話があると言う。少し言いにくいことなのだけれど、実は君を含めた僕たち6人の仲間には、竜神様がとりついた。これから僕たちはなるべく一緒に行動し、他の子供たちにとりついている悪い竜と闘うべきだと思う。君がどうしても嫌ならばその自由はあるけれど、できれば協力してもらいたい。

 

だから僕たちは仲間になった。僕は仲間だけの機密事項として6人兄弟の龍神一人一人の名を教えられたが、僕にとりついているのはその二番目の竜だという話 だった。とはいえ僕たちは、何か明確な行動方針を持っていたわけではない。中村**の竜は末っ子の竜で、特別強い発言権を持っているわけではなかったし、何より彼自身、自分からイニシアティヴをとって行動するということを何か下らないことのように見なしているふうだったからだ。だから僕たちは少なくとも週に一度は行動をともにしたものの、これといった成果を上げることはなかった。やがて中学校に上がると6人が三つの学校に分かれたこともあって、全員が揃うことは難しくなったし、僕と彼も、別の中学校に通いながら会い続けてはいたのだが、竜神の話は次第にしなくなってしまった。

フランスのラジオが好きな理由

久保田 静香

 

フランスに行って私がいちばん興味をもったのはラジオでした。フランス語によるラジオ放送です。より正確には、ラジオのフランス語ニュース放送になります。せっかくフランスに行ってラジオでニュースはないだろうという気が自分でもしますが、なぜかこれは本当のことで、かの地で私は、美術よりも音楽よりも、映画や演劇やオペラよりも、ある意味ではおいしいフランス料理を食べること以上に、ラジオに親しんでいました。そしてそれはこれまたなぜか私にとっては、テレビではなくラジオだったのです。無粋もここに極まれり、といった感がありますが、なぜ私がそれほどまでフランスのラジオに魅かれるようになったのかを、この場を借りてお話できればと考えました。

 

 

私が初めてフランスのラジオを耳にしたのは、アンジェAngersという地方都市の語学学校に通っていたころのことで、思えばもう8年前のことになります。その学校の《フランス語聴解》の初回の授業で、担当の女の先生が開口一番、とりあえずこれを聴いてみましょう、と言って流したのですが、聴いてびっくり、その速さといったら!一聴してわかったことといえばそれがフランス語であることぐらいで、いかなる状況で何についてどのような立場の人が話しているかとなるとまるで見当がつかず、話す言葉のスピードにただ目を丸くし、そのとき偶然席が隣になったハンガリー人の女の子と顔を見合わせながら、「terrible!(おそろしい)」と思わず声をあげたことをよく覚えています。「何これ?」「わかった?」「ぜんぜん」等々、世界各国から集まった外国人学生の驚嘆と畏怖と当惑の声で教室が騒然とする中、「フランス・アンテルFrance Intelというラジオ局が今朝流していたニュースのヘッドラインですよ」、と先生がおもむろに、たったいま聴いたばかりのものと比べたらだいぶわかりやすい(おそらくは外国人向けの)フランス語で話し始めました。「みなさんとても驚いているようですが、フランスではこれが普通なのです。最初はたいへんかもしれませんが、そうですね、まずはミニ・ラジオを買ってください。それを目覚まし代わりに朝から晩まで家の中でも外でも毎日聴いていれば、少しずつ聴き取れるようになりますよ」。

フランス語マンガとわたし

中島 万紀子

 

わたしがフランス語のマンガ(bande dessinée francophone)と出会ったのは、小学生時代にさかのぼる。日本でおそらく一番有名なフランス語マンガ(フランス「の」マンガ bande dessinée française と書かないのは著者のエルジェHergéがベルギー人だからだ)『タンタンの冒険旅行 Les aventures de Tintin』シリーズの翻訳が出はじめていたのだ。

 

日本のマンガとちがって粛々と単調にすすむコマ割りや、1ページの文字数の多さには一瞬ひるんだが、読み出したらたちまちのうちに引きこまれた。読み終わってフトわれに帰ると、この薄さで(だいたい1巻が45~60ページ程度)あれだけの奥行きと広がりをもてるとは……と毎回びっくりしたものである。

 

中学校でも、図書室にシリーズがそろっていたこともあって、同級生の間でタンタンはさりげなく流行っていた。授業中こっそり読んでいるけしからん輩もいたが(わたしではないです、念のため)版が大きいので(A4サイズ)こっそり読むにはなかなかの技術を要したようである。しかしそこまでしても続きが読みたいという気にさせるストーリーテリングの巧みさには、大人になった今でも感心させられる。あとは脇を固めるキャラクターの多彩さとおかしさがあげられよう。タンタン自身は、誤解を恐れずに言えば「主人公」によくある「いい子だがカラッポ(これといった個性もない)」というタイプだが、意外にナマイキな口をきく愛犬ミルー Milou(邦訳ではスノーウィ)、船乗り言葉の悪態をつきまくるアドック(ハドック)Haddock船長、へまばかりの刑事コンビDupontとDupond(邦訳ではデュ「ポ」ンとデュ「ボ」ン)、耳が遠くて話がことごとくとんちんかんになるトゥルヌソルTournesol(邦訳ではビーカー)教授といった人たちのやりとりがたまらなくおかしく、タンタンシリーズの白眉はこれだ!と思わされるほどである。

 

大学に入ってフランス語を学びはじめたわたしは、タンタンの原書を辞書を引き引き読んだりするようになった。そして大学3年で行った夏休みの語学研修で、人生で二つ目となる気に入りのフランス語マンガとの出会いを果たしたのである。フランカン Franquin(彼もまたベルギー人だ)作の『スピルウとファンタジオ Spirou et Fantasio』のシリーズだ。本屋でパラリと見たその絵柄のポップなかわいらしさに、わたしは完全にまいってしまった。ちなみに『スピルウとファンタジオ』シリーズは、ほかのマンガ家の手になるものもあるのだが、わたしはフランカンのものが一番好きで、さらにはフランカンの作品の中にはのちに描かれたもっと有名な『ガストン・ラガッフ Gaston Lagaffe』のシリーズもあるけれども、その頃になるとフランカンの線も熟達のデフォルメがされすぎている気がして、わたしはやっぱり、フランカンでは『スピルウとファンタジオ』が、『スピルウとファンタジオ』ではフランカンのものが一番好きである(のちにちゃんと読んでみたら『ガストン』もかなりおかしかったことを、念のため申し添えておきます。緑のトックリセーターを着ているが腹とヘソがいつも見えていて、ネコとカモメを飼っていてへまばかりしているものぐさな男子の話だ。これだけでもすごいでしょう)。タンタン・シリーズのある種端正なやわらかい線とはひと味ちがう、緩急と躍動感に富んだその頃のフランカンの線を見ていると、ただならぬ高揚感をおぼえたものだ。なぜかいつもベルボーイの赤い衣装を着ているスピルウ(彼も「主人公」らしくちょっとカラッポなキャラクターだが)と、お調子者のファンタジオのコンビぶり、いや、そうそう、忘れてはならないリスのスピップ Spipとのトリオぶりも楽しい。あまりにも気に入ったので、語学研修の終盤のある日、パリのフナック Fnac(本屋)でありったけの単行本を買い、その足で郵便局へ回って日本の自宅宛に発送した。郵便局で狂ったようにマンガを箱詰めしている東洋の謎の女子を見ていぶかしく思ったらしいお爺さんに話しかけられたのもなつかしい思い出だ。気に入ったコマを12選び出してコピーして、自分だけのまさに「オリジナル」な「スピルウとファンタジオ・カレンダー」を作り、部屋に飾ってひとり悦に入ったりしていたことも今急に思い出した。なんともヒマだったことである。